より よく 生きる

よりよく生きるために

映画・あん

餡。つぶ か こし か論争は、タケノコの里 か キノコの里 か論争よりも古くから存在するのではないだろうか。どちらもそれぞれの良さがあるので、私はどちら派と聞かれると困ってしまうものがある。おはぎの粒あんのようにプチプチとしたものも、赤福のようにこしあんで滑らかに包まれるのも、それはそれで良いのだ。

そういえば最近になって、和菓子を身近に感じるようになった気がする。桜餅も季節の和菓子も、学生の頃より頻繁に見かける。嗜好が変化して、それまで見えていなかったものが見えるようになっただけかもしれない。「月曜日の抹茶カフェ」で和菓子が取り上げられていたが、あれもよかった。そんなわけでマイブームというほどでもないが、和菓子を食べる頻度が飛躍的に向上した今日この頃。初めて御座候を購入して食べてみた。


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ほうじ茶によく合う。

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ここの御座候は粒あん。ちなみにもう一つは白あん。美味だった。余談だがこの御座候は商品名であるのでそう呼んでいるのだが、地方によって呼び名が異なるらしい。回転焼きとか大判焼きとか。これまた論争が起きそうなものである。

 

はてさて、餡を食べたらとても愛おしくなってみた あん という映画について、ネタバレ交えて綴っていこうと思う。

春。満開の桜の下、小さなどら焼き屋「どら春」では今日も常連である中学生が和気あいあいと話しをしている。その横で、一見寡黙そうで不愛想な一人の男がどら焼きを焼いている。男は雇われ店長で、名前を千太郎というらしい。彼は、常連客と入れ替わりでやってきたワカナという少女に失敗したどら焼きの皮を無料でこっそりと渡していた。彼女の家は高校進学もできるかわからないほど、不安定な家庭だったのだ。

そこにとある老婆がやってきた。名前を徳江というらしい。店先にあるアルバイト募集の紙をみて、自分を雇ってほしいという。自給300円、いや、自分は指が不自由であるので200円でも良いと老婆は言う。しかしどら焼き屋の仕事は長時間立ったままであったり、ボールや鍋も重く重労働であり、老体の彼女には無理がある。それらの理由で店主の千太郎は、老婆に雇用はできないと断り、どら焼きを1つ渡して追い払ってしまった。それでも老婆は諦めず、再度来店しこの店のどら焼きは餡が良くない、自分の作った餡をぜひ食べてほしいと 自作した餡を置いて帰っていく。その餡は、その店で使われていた業務用の餡とは香りも味も全てが違うものだった。

桜が散り、葉桜に染まるころ老婆は店にやってきた。そして店主は餡を食べたこと、ぜひ店を手伝ってほしいということを老婆に伝える。すると老婆は泣いて喜び、翌営業日は日が昇る前から準備をしましょうと告げるのだった。

まだ外も暗いうちから作業ははじまった。つけておいた小豆を1つ1つ確認し、皮の状態を確認する。そして、時間をかけて丁寧にゆっくりと、小豆をものではなく 来店客のように接し おもてないする。湯気の香りが変わり、小豆が少しずつ粒あんになっていく。数時間かけて作られた餡は無事完成。2人はどら焼きにして、その餡を試食する。もともと甘党ではなく、どら焼き1つを完食できないという店主だが、老婆が作った餡を使ったどら焼きであれば食べられると絶賛する。何故、そんな彼が店主をしているのか…。それからどら春には多くの人が訪れるようになる。2人が作ったどら焼きの評判が良いのだ。開店前から店先には数人の待ちがでるようになった。2人はささやかな幸せに包まれているようだった。

それからしばらくして、店のオーナーである女性がやってきた。老婆のことで話があるらしい。オーナーの女性は知人から老婆がライ(ハンセン病)なのではないかと聞いたらしい。そして老婆の住所を確認したところ、彼女が住んでいるのはハンセン病患者の方の療養所だった。世間の評判を気にし、老婆を解雇することを迫るオーナー。店主は先代のオーナーに恩があるらしく、無視することはできないらしい。男は困ったように「少し、時間をください」と答えたのだった。

老婆は最初は餡をつくるのみの仕事であったが、次第に接客にも参加するようになる。そして常連の中学生やワカナとも談笑をかわすようになる。そんなある日、ワカナは老婆に指はどうしたのか聞く。老婆の指先は曲がってしまっていて、うまく動かさないらしい。顔を曇らせる店主の横で、老婆は「若いころに病気をしたの」と告げるのだった。そしてワカナは図書館で、老婆の病気がライ(ハンセン病)であることを知ってしまうのだった。

それから店先にはピタリと人が来なくなってしまう。老婆は悲し気に店先に招き猫を置くが、あの頃のように客足は戻りそうもない。近所に老婆の病気のことが広まったのだろう。途方に暮れるなか、老婆は店を去ることにする。店主は何も言えずにただ見送るのだった。

 

 

浅学で申し訳ない限りなのだが、ライ(ハンセン病)に関してほとんど無知であった。ハンセン病という名前こそ知っていても、それがライと呼ばれていることすら私は知らなかった。

人類の歴史上もっとも古くから知られ、恐れられてきた病気の一つであるハンセン病は、らい病(Mycobacterium leprae)が主に皮膚と神経を侵す慢性の感染症ですが、治療法が確立した現代では完治する病気です。1873年にらい菌を発見したノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師の名前をとり、ハンセン病とよばれるようになりました。

www.nippon-foundation.or.jp (引用元URL、以下も同様) 

 

老婆の徳江は過去にハンセン病患者として、療養所に隔離されていたらしい。戦後の日本ではどのような扱いを受けてきたのであろうか。

 

ハンセン病に罹患した人びとは遠く離れた島や、隔離された施設へ追いやられ、自由を奪われ「leper]という差別的な呼ばれ方で、社会から疎外された状態で生涯を過ごすことを余儀なくされました。

(中略)

社会の無知、誤解、無関心、または根拠のない恐れから、何千万人もの回復者およびその家族までもが、ハンセン病に対する偏見に今なお苦しんでおり、こうした状況を是正する社会の取り組みは遅れを取っています。

古い時代から日本の患者には、家族に迷惑がかからないように住み慣れた故郷を離れて放浪する「放浪らい」と呼ばれた方も数多くいました。その後、明治時代に入り「癩予防に関する件」「癩予防法」の法律が制定され、隔離政策がとられるようになり、ハンセン病患者の人権が大きく侵害されました。第二次世界大戦後も強制隔離政策を継続する「らい予防法」が制定され、苦難の歴史は続きました。療養所で暮らす元患者らの努力によって、「らい予防法」は1996年に廃止され、2001年に同法による国家賠償請求が認められました。

余談になるかもしれないが、大谷吉継もこのハンセン病患者だったのではないかと言われているらしい。あの茶会での逸話を読んだことがあるが、そういうことだったのか。

 

この映画でテーマになっているのは 差別 であろうことは間違いない。老婆も店主もワカナも背景にはそれぞれ背負っているものがある。そしてそれぞれに差別はついてまわる。

老婆はずっと隔離される生活をしてきて、だからこそ外で働くというのはどれくらい嬉しいことだったのだろう。それを認めてもらえるというのはどれくらい幸せなことだったのだろう。そして、自身のせいで(差別のせいで)店が困窮する事態になってしまったとき、どれくらい悲しかったことだろう。諦めが先にくるのだろうか。怒りか、悲しみか。想像すると本当に胸が痛い。

 

この映画は2015年の作品であるので、当然、現代のCOVID-19のことなど到底想像もついていなかったころに作られたわけである。それなのに、どうしてこんなにもリアルで身近に感じるのだろうか。私がこの2年間で思ったことは「正しく恐怖しよう」ということだった。COVID-19を軽んじることはしない。ただ過剰に恐怖するのではなく、適切に、情報をきちんと獲得しようということだった。

まだ緊急事態宣言が発令されるよりも前の2020年2~3月くらいの頃だっただろうか。当時勤務していたショッピングモールでは情報が錯綜していた。どこの店舗に出た…とか、消毒はどうするのかとか。県内で出て、何処の店舗にいったかもしれないという不明確な情報が、強制するかのように回ってくる。それらの情報はあくまで噂なのだった。県の情報開示があったわけでもなく、館から御触れがあったわけでもない。そういった情報に恐怖している人々が、私にとっては恐怖だった。

 

作中で印象に残ったのは、オーナーが店主に老婆の病気について詰め寄った後、オーナーの女性は過剰なほど手を何度も何度も消毒液で消毒するのだ。

感染経路はまだはっきりとわかっておらず、治療をうけていない患者との頻繁な接触により、鼻や口からの飛沫を介し感染するものと考えられていますが、ハンセン病の感染力は弱く、ほとんどの人は自然の免疫があります。そのためハンセン病は、’最も感染力の弱い感染病’とも言われています。

あくまで想像だが、このオーナーの女性は噂で老婆のことをしり、特にそれについて調べることもなく、ただ今まで聞きかじった情報だけをもって店主の前にあらわれたのだろう。そしてそれが差別であるという自覚もないのだ。

ただ私はこれを真っ向から否定することはできない。人間は自分とは違う何かを見た時、強く拒絶して自分(達)を守ろうとする。そういった防衛反応のようなものを否定できない。私も、もし、何も知らない状態で目の前でそういうことが起こったとき恐怖しないでいられるとは思わない。現に、まだCOVID-19について解っていなかったあの頃は恐怖で仕方なかった。だからこそ、知ることは大切だと思った。

 

 

ここ最近、続けて樹木希林さんの出演されている作品を観たのだが、やはり希林さんの演じられる役はどれも良い。愛おしいというか、人間味を感じるというか、素晴らしい方だと思う。ちなみにワカナの役を演じられていたのはお孫さんだったらしい。知らない女優さんでこれから演技はになりそうだと思い調べたら、お孫さんとあったので驚いた。そして店主をつとめる永瀬正敏さんがちょうどよかった。寡黙過ぎず、不愛想すぎず、軽すぎず、重すぎない。なんとちょうどいい配役か。

 

全体を通してそこまで台詞が多いわけではないが、それでも優しく紡がれていく言葉が愛おしく美しかった。映像も自然の描写が美しい。老婆と店主が2人で餡をつくるシーンの小豆の輝きも美しかった。美味しそう、というよりは芸術的に感じたのは何故だろうか。

 

あと作中に出てきた くめがわ電車図書館 がとても気になった。西武鉄道の引退車両を図書館として使用しているらしい。調べてみると市立図書館ができるよりも前からあったらしい。図書館関係に少しでも携わっている人間であるので、とても気になる。行ってみたい場所がまた一つ増えた。

www.city.higashimurayama.tokyo.jp

 

この映画はまた時間をおいて繰り返しみるだろう。そういう作品に出会えたことを嬉しく思う

映画・ノマドランド

25歳くらいの頃だったか。ミニクーパーに乗っていた頃がある。黒のぽってりとした丸いフォルムが愛らしく、手も金もかかる車であったが、今はいい思い出となっている。今後大きく生活環境が変わることがなければ、もう自家用車をもつことはないだろうと思っている。そもそも車が愛らしかっただけで、運転が好きなわけではなかったのだ。

だがその当時、ちょっとした野望のようなものがあった。ルパン三世の「カリオストロの城」を観たことがある方は想像しやすいと思うのだが、あんな感じで旅をしたかったのだ。車の後ろに荷物を詰め込んで、できれば日本全国、観光地は勿論だが、そうではないありふれた場所に行ってみたかった。ゲストハウスに泊り、現地で労働をして金銭を補充しつつ、長い旅をする…、というのが当時の夢だった。残念ながら女一人、そのような旅をするのは危険だと周りに止められてしまい、実現することはできなかった。今も、方法を変えていつか、実現できたらと思っている。

 

今回は映画ノマドランドについて、ネタバレ交えて綴っていこうと思う。

ミニマリストが観るべき映画〇選!なんていう記事をみれば、高確率のっている映画「ノマドランド」。実際に私も興味があったし、いつかは観なければならないと、よくわからない義務感のようなものをもっていた。やっと観れたのだが、とても興味深い内容だった。

 

ネバダ州のとある企業城下町に暮らす、60代女性ファーン。旦那が亡きあともその町にとどまっていたが、リーマンショックの影響で徹底を余儀なくされ、長年連れ添った家を失ってしまった。彼女は売れる荷物を売却し、キャンピングカーを購入する。残していく荷物は貸倉庫に預け、それ以外はそのキャンピングカーに乗るだけ。そして彼女のノマド生活が始まる。

アメリカ各地で季節労働者として各地を転々とする。Amazonの配送センターで勤めているとき、リンダ・メイという女性に出会う。彼女もリーマンショックの影響で財産を失った女性だった。リンダはファーンに「砂漠の集い」に来ないかと誘う。砂漠の集いとは自身もノマド生活者であり、YouTubeなどで情報を発信しているボブという男性が、ノマド生活者の支援を目的として催されているイベントであった。そこではノマド生活をするうえで必要な情報が共有されたり、不用品の交換、そして人々の交流の場となっていた。そこでファーンはスワンキーという女性やデヴィットという男性と知り合うこととなる。ファーンは多くの出会いと別れ、そして再会を繰り返しノマド生活を続けていく。

 

この映画は、ジェシカ・ブルーダー原作の「ノマド:漂流する高齢労働者たち」を映画化した作品らしい。

ノマド(nomad)は英語で「遊牧民」の意味

kotobank.jp

もともとフランス語で遊牧民・放浪者の意味であり、本来は「定住する場所がなく、移動しながら暮らしている人々」のことを指す。最近はオフィスをもたないで様々な場所で働く方々のことをノマドワーカーと呼んだりしているし、財布などを手掛けるブランドのノマドイはこのノマドから名前を得ている。割とここ数年、なじみのある言葉になったように私は思っている。

nomadoi.jp

ノマド生活とは、定住することなく移動しながら暮らす生活というわけだが、ホームレスとは違うらしい。作中でファーンが「ホームレス」ではなく「ハウスレス」だと断言している。家という形にこだわらず、自分のHome(住まい)はあるが、House(家)はないということか。このシーンが特に印象に残った。彼女にとって、そこは譲れない誇りのようなものだろうかとふと思った。

 

ノマドの人々の世界では別れは「さようなら」ではなく「またね」らしい。今は別れてしまうけれど、いつかまた会える。それは他界した人も同じこと。すがすがしいような、温かみのあるようなものを感じた。

 

ファーンは最後、自分の過去を整理し、貸倉庫に預けていた、要は過去と今を繋ぐ荷物を全て処分する。今現在必要な荷物であるキャンピングカーにのっている荷物だけを背負って旅を続けていく。正直にかっこいいと思った。シンプリストを目指している私だが、私はここまで捨てきることはできない。当然境遇が違うので同等に扱うものではないし、比較するものでもないのだが、この潔さのようなものを私にも取り入れることができたらと思った。

 

冒頭で旅をしたいと言ったが、いつか私も鞄一つをもってあちこちを周ることができるだろうか。旅、したいなぁ。

映画・ねことじいちゃん

犬が好きだ。しかし猫も好きだ。猫の中でも特にずんぐりむっくりした、ふてぶてしい猫が堪らなく好きだ。少し前にエキゾチックなんちゃら~と目の座った猫が流行ったらしいが、あのあたりはドストライクに好きだ。勿論、シュッとした、凛とした猫も好きだ。一つ問題があるとすれば、私が猫アレルギーということだろうか。友人宅の猫様と触れ合った後、目が痒くなって鼻がムズムズとしてしまった…。実家は全員猫アレルギーであったので、もうこれは家系なのだと諦めているのだが…。体調が万全の時に、一度でいいから猫を吸ってみたい…と願っている。(その日の夜は呼吸器官がやられるかもしれないが)。

そんなわけで猫は書物から摂取するようにしている。漫画であれば「デキる猫は今日も憂鬱」や「うちの猫がまた変なことをしてる」、「ニャアアアン!」であったり…。ドラマであれば猫侍が少々気になっている。アニメの「俺、つしま」はなかなかにシュールでよかった。

 

今回は「ねことじいちゃん」について、ネタバレ交えて綴っていこうと思う。

毎朝、猫の重さで目が覚める。数年前に妻に先立たれた大吉は、飼い猫 タマと二人暮らしをしている。彼が生まれ育ったこの島は、ゆったりと時間が流れているようだった。独居老人である大吉だが、狭い島で友人や猫に囲まれて穏やかな毎日を過ごしていた。

そんな島にある日こじゃれたカフェができた。都会から移住してきた美智子という女性が主らしい。彼女は店先で眺めていた猫と老人たちを歓迎する。最初は「老人だから」としぶっていた彼らだが、次第に店に馴染むようになった。

立派な豆を頂くが料理の方法が浮かばない。美智子に豆ごはんを作るのはどうかと提案される。そういえば昔は亡き妻が豆ごはんを作ってくれていた。妻が残したレシピノートを無事発見し、感性した豆ごはんに舌鼓をうつ。しかしそのノートはたった数ページしか埋まっていなかった。大吉はその続きを自らが書くことにした。

何も変わらない日々のように見えて、実は刻々と季節のように移り行く。親しい友人が急死したり、自身の心臓にも不調がでてしまう。東京で暮らす息子は大吉を心配し、東京に来ることを勧めるが、大吉はなかなかその気にはなれないでいる。そんななか、タマが行方不明になってしまい…。

 

猫がえらく良い感じに撮られているな…と思ったら監督がそういう方なのらしいと後からしった。とにかく猫が可愛い。

原作ののんびりとした雰囲気がとても好きだったので、壊れてしまうんじゃないかと心配していたが無用だったらしい。ちゃんとのんびりしていたので安心した。やはり「ねこと…」というくらいだから猫が主人公(主猫公?)といっても過言ではなかった。

とても切ない描写もあるのだが、それが日常の1コマであり、いい意味でそれらが淡々といずれくるべきものとして流れているのがよかった。猫を遺して他界したとしても、その猫はみんなの猫として育てていくから大丈夫というくらい、皆が支え合って生きている姿はユートピアのようだった。

あえて大吉さんと亡き妻以外の人間ドラマを濃く描かなかったのもいいと思う。あくまでこれはねことじいちゃんの物語で、ヒューマン映画ではないのだから…と思わせるくらい猫がよかった。豪華なキャストであるにも関わらず、それぞれが主張し過ぎず、いい味を出しているところも個人的には好きだ。柴咲コウさんが猫をなでくりなでくりしているシーンが素敵でならない。

 

それにしても全体的に猫がみんなふくふくとしていて、個人的にはドストライクだった。丸い。(きっとリアル野良ネコさんたちはこんなにふくふくとしていないというつっこみは置いておこう、これは猫が幸せであればいい映画なのだから)

 

なんというか、全体的にのんのんとして暖かい気持ちにさせてくれる映画だったので、疲れた時はまた長そうと思う。…と言いつつ、さっそくもう一度みたのだが。猫最高。

映画・命みじかし、恋せよ乙女

ドイツ、残念ながらあまり知っていることはない。国外から出たこともなく、世界史も世界地理も壊滅的な成績の私にはその国の「イメージ」というものがあまりない。当然、ドイツを舞台にした、ドイツの方が書かれた作品にも詳しくない。ヘルマン・ヘッセの「車輪の下で」もカフカの「変身」も未だに読めてはいない…もちろん知らず知らずに読んでいるものもあるだろうが…。ビールも加工肉も摂らない私にとって、関わりをあえて言えばグリム童話ぐらいだろうか。

なので、そもそもの価値観の相違を理解していないうえで、作品に触れていることを理解した上で作品に触れなくてはならない。言い訳が長くなったが、今回は「命みじかし、恋せよ乙女」についてネタバレ交えて綴っていこうと思う。

樹木希林さんの遺作であり、海外デビュー作となった本作。正直なところ、理解するのに少々時間がかかりそうである。

 

もともと東京の銀行でエリートであっただろうドイツ人男性カールは全てを酒によって失おうとしている。仕事も、妻も、子も。そんなある日、ユウと名乗る日本人女性が訪ねてくる。風代わりな服装に言動、動き。彼女は10年前に東京で死去したカールの父と親交があったらしい。カールの父の墓参りと暮らした家をみたいとのことから、2人は共に行動を始める。

カールの生家で暮らし始める2人。カールは黒い何かに襲われる恐怖から眠ることも怖がるが、その中で少しずつ彼の人生を見つめ直すことになる。幼少の頃、母親はカールを特に甘やかしていた。そしてその嫉妬からか姉と兄は彼をいじめるようになった。両親の死後も遺産問題や政治思想の争いなどから、それぞれとの関係はお世辞にも良好とはいえず断絶されていた。毎夜のように両親や様々な幻影(幽霊?)に責め立てられるが、それを救ってくれるのがユウだった。彼女だけは、カールにそのままでいい、体など関係なく、あなた自身がいいのだと諭す。カールが性同一性障害なのかと仄かに伝わってくるような描写が続くなか、わけあってカールは死の淵をさまよい、挙句男性器を失ってしまう。そして病院から生家に戻ってみるとユウは忽然と消えてしまっていた。

カールはユウを探し求め、日本の茅ヶ崎へとやってくる。カールは女性ものの浴衣を羽織った姿だった。そこでカールはユウによく似た人影を見つけ後を追う。そこは茅ヶ崎館という宿だった。女将である女性(ここでやっと樹木希林さん登場!!)に案内され、宿での生活が始まる。そこでカールはユウについての真実を知るのだった。

 

 

アルコール依存症性同一性障害、政治思想、ひきこもり問題、人格形成の際の家族間の問題、様々な問題が盛り込まれた物語なのだろうかと考えている。盛りだくさんな上、どれも唐突に決定打が訪れるものだから少々ついていくのに時間がかかってしまった。

オープニング映像からもこの作品が日本の怪談奇譚であることは想像がつくし、ノイシュヴァンシュタイン城でのやり取りからもある程度の察しは付く。ちなみに私はこのノイシュヴァンシュタイン城での件でカールもユウの正体についてある程度理解した上であえて触れていないのだと思っていたが違ったらしい。アルコールの中毒症状はいわゆるオカルト現象とをつなぐ架け橋のような役目にもなっていたのだろうか。

 

それにしても日本にくるまでが長い。そして暗い。樹木希林さん観たさに観ていた…といえば怒られてしまうだろうか…。そんな理由で観たばっかりに、樹木さんが出てくるまでがとても長く感じられて仕方なかった。出てきてくれたときの感動ときたら…。

 

全体の感想としてだが、どうしてもユウに対しての違和感が邪魔をして作品に集中できなかった。まず「こんにちは」「南無妙法蓮華経」などの日本語が覚束ない点や、言葉、仕草、行動に不可解な点が多い(下手というわけでは断じてないのだが)。まぁいってしまえば彼女のミステリアスを飛び越えた存在であれば仕方ないことでもあるのだが、とはいえ「???」が続く。精神疾患(?)を患っていたから…という点も考えたし、彼女の生い立ちから…とも思ったが、よくわからない。そもそも何故カールなのか、何故今更なのか…。

 

全体的に映像が暗いが、ところどころでドイツの風景や、茅ヶ崎の街並みが映るシーンは美しかった。ところどころでながれるピアノ曲などの音楽も美しかった。階段の2階、1階で糸電話のように電話を垂らすシーンは個人的に好きな構図・描写だった。

また、カールの浴衣の着付けをなおす際に樹木希林さんがいった「あなた、生きてるんだから、幸せになんなきゃダメね」という言葉が染みた。樹木さんはどんな気持ちであの言葉を仰ったのだろうか。とても良いシーンだった。

 

作品を通して浮かんだ言葉がある。「メメント・モリmemento mori)」意味は「死を忘れるな」といったものだが、私は「死を忘れない」=「生を意識する」という解釈でいる。死に近づいたからこそ、生きるという決定ができる。それは私も痛感している。希死念慮があるから、今生きているという実感がある。そして、今、私は生きて故人に想いを馳せているのだとそんな感情が浮かんだ作品だった。

 

 

映画・真夏の方程式

真夏。私が住むのは盆地のただなかであるので、湿度が高く、また当然温度も高い。毎日のように夕刻になればスコールのような雨が降る。夜はその雨のせいで一層湿度が増して、サウナのような空気を身にまとって生活しているようなもの、といえば伝わるだろうか。近くに海でもあれば、風がながれて違うのだろうが、生憎海はない。真夏の海辺も長らく訪れていないが…いつか、シュノーケリングでもしにいきたいものである。

真夏…といわれれば、浮かぶ映画はサマーウォーズとこの真夏の方程式

 

今回は真夏の方程式についてネタバレ交えて綴っていこうと思う。

前回観た「容疑者Xの献身」同様、ドラマ「ガリレオ」シリーズの劇場版。

とある電車内、他の乗客と口論になっている恭平という少年と出会う。10歳ほどの彼は、1人、伯母夫婦が営む旅館に滞在することになり、その道中だったらしい。口論の原因は電車内での携帯電話の通話だったのだが、心配した両親からの電話を切ることはできず、また電源を落とすと両親に連絡がいくシステムになっている。それらの雑音が不快だったのか、湯川は携帯をアルミホイールで包むと電源を落とさなくても電話がかかってこないことを伝える。

湯川や恭平が到着した先は玻璃ケ浦という浜辺の町。そこでは海底資源の開発が計画されている。湯川はその説明会に招待されていた。説明会には賛成派・反対派が多く参加している。その反対派の中に川畑成実という女性がいた。彼女は環境活動家であり、玻璃ケ浦を守るために活動しているが、少々過激にもうつる。彼女の実家は「緑岩荘」という旅館を営んでいるのだが、そこは湯川の滞在先であり、恭平が宿泊している旅館であった。

その夜、恭平は足を悪くしている伯父に花火に誘われる。真夏の夜に映える打ち上げ花火が美しい。しかし、次の日の朝。恭平は物音で目が覚める。それは警察のサイレンや、人の話し声だった。窓から外を見てみると、それらの音源となる物事は自分がいる緑岩荘の周りに集まっているらしい。

この緑岩荘の宿泊客であった塚原という男が変死体となって発見されたのだった。

恭平は遺体の発見場所が不自然なことを湯川に説明する。普段、子どもが嫌いで蕁麻疹すらでる湯川だが、この恭平という少年にはそれがでないらしい。今までのように、警察からの調査依頼も来たことや、様々な理由が重なり、湯川はまたもこの事件の真相を究明しようと動き始める。しかしそこには川畑一家にまつわる秘密がまるで根のように絡み合っていたのだった。

 

真夏の方程式」では柴咲コウさんが降板されていたため、実はきちんと観ていなかった。以前、地上波でやっていたときに、事件の解明部分だけをみていたので、概要は把握していたが、今回やっと全てを理解したということである。

真夏の方程式」は「容疑者Xの献身」のアンサー映画のようなものなのだろうか、とふと思った。あのラストがあったからこそ、今回のラストはこのような形になったのではないだろうか。ラストで恭平にかけた言葉も、湯川自身が以前、内海刑事に言われた言葉と重なって聞こえた。湯川も経験値をつんでいるのだと、ほっこりした。

この映画はとんでもないバッドエンドだ、「容疑者Xの献身」よりも。どうしても彼ら(恭平や川畑一家含め)のこれからが心配になってしまう。しかしながら、塚原の描写が少ないせいかあまり感情移入や、何かしらを抱くことがなかったのが残念でならない。もうすこし殺された無念のような描写が原作にはあったのだろうか。気になる。

 

はてさて、これでガリレオシリーズの映画2本を見切ったわけだが。実は今まで東野圭吾作品を読んだことがない。前回でも少しふれたが、あまりサスペンスやミステリーに触れてこなかったのだ。なんならサスペンスとミステリーの違いすらよくわかっていない。そういえば妹は過去にガリレオシリーズを読んでいたようで、原作の湯川のイメージとドラマの湯川のイメージは違うと言っていた(別に否定的意見というわけではなく)。私はドラマしか知らないのだが、原作の方も気になってきた。少し「真夏の方程式」のことを調べていた際も、原作にしか出てきていないキャラもいるらしい。尚更気になる。

…とはいえ、触れるのはいつになることか…案外すぐかもしれないが。機会があれば読むかもしれないし、読まないかもしれない。とりあえず、次の映画が楽しみであることに間違いはない。

映画・容疑者Xの献身

サスペンスやミステリーをさほど多くみているわけではない。子どもの頃にシャーロックホームズを読んだわけでも、江戸川乱歩を読んだわけでもない。観ていたものといえば、金田一少年の事件簿名探偵コナンのコミックやアニメでくらいだろうか。それ以外もドラマや映画を観ることがあったが、そういうものに触れるたびに、思うことがあった。

 

今回は「容疑者Xの献身」について、盛大にネタバレ交えて綴っていこうと思う。後半で「名探偵コナン」のネタバレも一部含むのでご注意願いたい。

ドラマ ガリレオ シリーズの映画化。たしか1期はあらかた観たように記憶している。2期は柴咲コウさんが降板されたとのことで、観ていない。1話完結のドラマで(最終話は違ったが)、起承転結がはっきりしており、その話ごとにテーマになるオカルト現象のようなものがある。それをやや熱血気味の内海刑事と一癖も二癖もある天才物理学者の湯川が、物理学を交えて解明していくという構成が、みていて面白かった。2人のタッグも良い。今年の秋に2人が銀幕に戻ってくるらしい。それならばと久々に、過去の映画を観たわけである。

 

映画「容疑者Xの献身」は何度見ても、辛い。

 

花岡靖子は一人娘とアパートで2人暮らしをしている。早朝には家を出て、勤め先に向かう。勤めるのはかねてからの念願の弁当屋。彼女はそこで店長をしている。

花岡の隣室には石神という高校の数学教師が一人で住んでいた。白髪交じりで、常に猫背で実年齢よりも老けて見え、疲れきったようにすらみえる男だった。彼は毎日、花岡の営む弁当屋で弁当を買う。しかし挨拶以上の会話はほとんどできないでいた。

平和ではないかもしれない。それでも毎日が過ぎていく。そんなある日に事件がおこった。花岡の元夫が、彼女の居場所を突き止めやってきたのだ。暴力的で人の話を聞かない典型的なDV男。彼と花岡の娘には血の繋がりはないらしい。彼が訪ねてきたのは金の無心。挙句、彼は娘を将来、夜職で働かせ さらに金をつくろうとするような男だった。

娘は自分の将来や母のことなど、怖かっただろう。手元にあったスノードームで元夫を殴ろうとする。しかし失敗におわってしまい、逆に暴力をうける形となってしまった。花岡親子は必死になってそれを止めようとし、さなか、こたつの延長コードで元夫の首を絞めて殺してしまったのだった。

隣から鳴り響く騒音で何が起こったかを悟った石神は花岡家を訪ねる。そこから、物語が始まる。

そして変死体が発見された。遺体は顔を潰され、指紋が消えるように指を焼かれ、衣服も燃やされていた。

そして捜査線上にあがったのが、先述の花岡だった。しかし花岡親子には事件当日にアリバイがあり証人までもいた。2人はその日、映画を観た後、ラーメンを食べ、カラオケにまでいっていたのだ。ある意味できすぎたアリバイ。内海は人が同時に2か所に存在したと湯川に助けを求める。その際、湯川はひょんなことから花岡の隣に石神という帝都大学のOBが住んでいたことを知る。石神は湯川も認める天才数学者だった。そして久々の再会を喜ぶ湯川と石神。やはり石神の天才ぶりは少しもかわっていなかった。

石神は花岡親子の犯行が露見しないようになにがしかの偽装工作をしたらしい。そして毎日、公衆電話から2人に指示を出していた。刑事に聞かれた質問への回答方法や、映画のチケットの保管場所まで。しかし次第に石神は花岡に対しストーカーのような行為を繰り返すようになる。花岡に好意を寄せる工藤という男が現れ、花岡も少しずつ工藤に惹かれるようになっていた。それが石神には裏切り行為のように感じたらしい。そしてその石神の想いが、花岡には重くて仕方なかった。これでは元夫が石神に代わっただけだと思うほどに。

湯川は事件の真相を殆ど解明していた。しかし、全てを証明できたわけではなかった。石神を詰問するが、彼は湯川に「この問題を解き明かしても、誰も幸せにならない。忘れてくれ」と乞うのだった。

その後、石神は花岡に2枚の手紙を残し、出頭する。花岡の元夫を殺したのは自分であると。そして花岡へのストーカー行為も認めたのだった…。

 

 

 

私はこれが初めての視聴ではないため、誰が犯人で、トリックも全て理解した上で再度映画を視聴しているわけである。その上で、この「忘れてくれ」のあたりの描写が切なくてならない。石神を演じたのは堤真一さんなのだが、本当に素晴らしい役者さんだと思う。石神の疲れ切った男性像も、ストーカー行為を繰り返す際の不気味さも(本当に怖い)、それぞれのささやかな表情であったり、息遣いが素晴らしかった。

同様に花岡靖子を演じたの松雪泰子さんも素晴らしかった。娘を守る姿勢、靖子の甘さ、真実を知ってしまったあとの表情…全てが素晴らしいと思った。

ガリレオであるので、主人公は湯川と内海であるのだが、この2人の描写はそこまで多くない様に感じた。やはり描かれているのは「容疑者X」がメインなのだろう。

 

はてさて、冒頭でこういったものに触れると思うことがある、という話だが。それはこの後の展開についてなのだ。(フィクションにそういった突っ込みをしてもしょうがないというのはいったんおいておこう)

 

先日、名探偵コナンをみていたときだった。とあるカップルの結婚前夜に事件がおこった。新婦となるはずだった女性が乗った車が爆発しながら燃えあがり、彼女は焼死体となって発見される。自殺と思われたが、不審な点が多く、第一の容疑者として挙がったのだ新郎となるはずだった男性。

事件の真相としては、彼女はわけあって自殺したわけだが、その理由に関しては彼女が命をかけて隠し通したいことだったのだ。事件の真相を解明するためとはいえ、彼女が命がけで守ろうとしたその秘密を多くの人間の前で説く必要がどこにあるのだろうか。解決することが必ずしも必要であるのだろうか、ということ。

好きな方には申し訳がないのだが…無神経にもほどがあるだろう、もっとやり方とかあるだろう…。というかそんな理由は警察と疑われた新郎(新郎にすら覚悟を持たしてから言ってやれと思った)だけが知ればそれでいいわけで、なぜ人前で言う必要があるのか…とモヤモヤとした。解決=最善なのだろうか?

 

解決することが目的のジャンルに対して、こういったことを思うことが甚だお門違いというのは承知の上で思うのだが…ときたま解決することに意味はあるのだろうか?と思ってしまうものがある。

石神が「誰も幸せにならないからわすれてくれ」というのは一方的な我儘であることは理解している。殺人を肯定しているわけでもない。そしてホームレスの方を軽んじているわけでもない。花岡は罪を償うべきであるし、娘も殺人に協力したと見做されればそれ相応の罰を受けなければならない。そして石神も許されない罪を犯してしまった。そう、許されないのだ。この3人は誰しも罪を償うべきであるし、それから逃れることは許されないのだ。殺されていい命などないのだから。

それでも花岡の決断は花岡だけの人生が捻じ曲がるわけではない。娘、石神、工藤…。そのうえで「自分たちだけが幸せになるなんてできない」という決断をした。もし石神がある意味命を懸けて花岡親子を助けた本当の理由を知っていたら、少しは変わったのだろうか…。

 

ラストの湯川が扉越しに全てを察するシーンが切なくて仕方ない。私は学もないし論理的思考は到底できないが、湯川の中では論理的にすべてを理解しているのだろう。それでもあぁして苦悩しているシーンは、何度見ても泣いてしまう。この作品は本当に好きな作品なのだ。辛くなるし後味がいいかといわれると微妙だけれど…。

 

とある人が何かで「人は自分に関係のない人間がいくらそれで亡くなろうが興味を持たないが、身近な人間がたった一人でも亡くなれば、その原因は重大なことになる一面がある」…といったニュアンスのことを仰っていた。たとえば、難病であったり事故、事件であったり。石神にとってそのたった一人が花岡だったのかもしれない。そしてそういった愛もあるのだと、考えさせられた。

 

愛ってエゴなんだなぁとしみじみ。

映画・キャロル

赤い口紅と仄かに香る香水に憧れた時期がある。テラテラとグロスの塗られたものではなく、あくまでマットな赤。そして、その人が通り過ぎた後、風にのって微かに香るくらいの爽やかで、どこか甘みのある香り。それは若かった私には大人の女性の象徴であったり、自立の象徴であったり、とにかくとても特別なものに見えた。普段はリップクリームだけで口紅をささないし、さしたとしてもオレンジかピンク色が私の唇には似合うらしい。香水も最後につけたのはいつだったか、大学生の頃だったか…少なくともこの10年ほどは購入すらしていない。それでも淡い憧れはいまも心の片隅に、ひっそりと腰を落ち着けているらしい。

 

映画 キャロルについてネタバレ交えて綴っていこうと思う。

1950年代ニューヨークを舞台に女同士の美しい恋を描いた恋愛ドラマ。

太陽がいっぱい」などで知られるアメリカの女性作家パトリシア・ハイスミスが52年に発表したベストセラー小説「ザ・プライス・オブ・ソルト」を映画化。

 

1952年、冬。ジャーナリストを夢見てマンハッタンにやってきたテレーズは、クリスマスシーズンのデパートで玩具販売員のアルバイトをしていた。彼女にはリチャードという恋人がいたが、なかなか結婚に踏み切れずにいる。ある日テレーズは、デパートに娘へのプレゼントを探しに来たエレガントでミステリアスな女性キャロルにひと目で心を奪われてしまう。それ以来、2人は合うようになり、テレーズはキャロルが夫と離婚控訴中であることを知る。生まれて初めて本当の恋をしていると実感するテレーズは、キャロルから車での小旅行に誘われ、ともに旅立つが…。

(映画.com より参照)

eiga.com

 

最近は暇があればYouTubeをみている。時間を浪費しているようでよくない。せめてインプット・アウトレットにつながるものを…と思ったりもするが、やはり好きなものでなければ続かない。マイブームは藤原しおりさん(元ブルゾンちえみさん)。

www.youtube.com

#41ではかねてから待望されていたといっても過言ではない、映画レビュー。その作品が「CAROL」だった。そんなわけで、大体のあらすじはしおりさんの配信の中で聞いたうえで作品に触れた。

 

作品を観終えてまず思ったことが、「美しかった」だった。世界観、ミザンス、音楽、キャストの美しさ、繊細な表情の機微までがクリアにうつるさまが「美しい」ということだった。全体的に台詞は多くないと思われる。淡々と、必要な台詞だけが使われる。しかしその際の表情や間、仕草でそれらを全て補填してしまうのだからすごい。やや前半、間延びしている感も否めないが、行間を読む楽しさを残してくれる映画は見ていて飽きない。むしろそのためのテンポなのでは???とすら勘ぐってしまった。

あと個人的に推したいのは衣装のすばらしさだろうか。キャロルもテレーズもとにかく衣装が可愛い。

キャロルの美しくカールしたブロンドにはパキッとした洋服がとても映える。落ち着きのある赤いコートに身を包むキャロルは神々しく美しいし、まるで次縹のような淡いブルーの洋服も洗練されていて、実に気品がある。なのにどちらも大人の妖艶さというか、落ち着きのようなものを感じる。

打って変わってテレーズはガーリー。特に小物使いが可愛い。黒のヘアバンド、ベレー帽、チェックのマフラーが年頃の少女感を醸し出しているし、Aラインのワンピースが実に愛らしい。

衣装だけでも、ずっと眺めていたい。気になる方は以下のサイトを見てほしい。

www.cinematoday.jp

 

あらすじでも説明したが、この物語は1952年、ニューヨークが舞台となっている。今も当時の時世もあまり詳しくはないが、作中の言葉をそのまま信じるのであれば、同性愛者の方々への扱いはあまりよいものではなかったらしい。同性愛=病気としてとらわれていたり、当時の今も昔も圧迫された世界だったらしい。

そんなキャロルには離婚控訴中の夫がいるが彼は彼女のことを「お飾りの妻」としてしか認識していない。言うことを聞いて当たり前の存在として接しているところが節々にあった。切ない。そんなキャロルと夫を繋ぐ唯一の紐が娘であるが、夫はキャロルからその娘を奪おうとする。そんな失意のなか、キャロルはテレーズとともに小旅行へと旅立つのであった。

 

打って変わってテレーズだが、自分のランチも決められないほど優柔不断な女の子。自分が何をしたいのか、誰を愛しているのか、まだクリアになっておらず全体的にぼんやりとしている。恋人はぐいぐいと先に進もうとするが、テレーズはそれにどこか違和感を感じ「頼んでいないことを」押し付けられているが、それにもはっきりと反応できないでいる。そんなテレーズだからエレガントでミステリアスなキャロルに憧れのようなものを抱いたのかもしれない。それから少しずつ関係を深めるにつれて、恋心となって揺れ動く姿が初々しく、若い美しさがあった。

 

些細な縁からはじまった2人は、その後 小旅行を始める。いつ戻るのか、どこに行くのかすら決まっていない。ただただキャロルは車を走らせる。

(余談だがこのキャロルの車がまたいい。1949 packard super deluxe 8のカスタム車だそうな。ベージュがかったレトロなデザインが素敵で、実際の車を所有するのは難しいがminiatureがあるのであれば欲しいくらいだった。)

 

旅の最中にある女子会のような雰囲気も2人が愛らしくてならない。香水をつけて香りをかぐシーンもよかった。そして、2人の仲はどんどんと深まり、ついに結ばれる(…と表現していいのか?)シーン。性行為シーンだというのに、どうしてこんなにも美しいのだろうか…汚らしさ、といってしまえば語弊があるかもしれないが、それらを一切感じさせない、清らかなシーンにすら見えた。その後、キャロルが言った「私の天使」はまさにだった。2人とも美しかったのだ。

その後の展開としては、キャロルが一方的に別れを切り出すのだが…。そのくせ「待っていて」といえばよかったと、女々しさのようなものを出すキャロルがなんとなく可愛い。逆にテレーズは一皮むけて、自分で考える力や、意思のようなものをもったように思う。「花開いた」とは本当にいい表現で、まさに開花したガーベラのように艶やかだった。本当に観てよかった。

 

人からオススメされたもの が実は私は苦手だ。圧のようなものを感じてしまって、それをこなしてしまったら感想を伝えなければならないのでは?楽しまないといけないのでは?と不必要なことまで考えてしまう。しかし、今回は実行にうつして本当に良かった。ランキングをつけるということがあまり好きではない私だが、今年みた映画のなかでも確実に上位にランクインしそうである。

 

赤いマットな口紅は学生時代は浮いてしまって似合うことはなかったが、32歳になった今なら似合うだろうか。キャロルのような美しさを纏って生きていきたい。