より よく 生きる

よりよく生きるために

映画・little forest

気になったらやってみないと、気が済まない性格である。何事も。それに追加して貧乏性というか、節約魔なところもある。皿が割れてしまったら、なんとかしてなおしたいし、お気に入りの服が着られなくなっても、なんとかできないだろうかと考える。そんな日常をおくっているからか、少し変わったスキルのようなものを手にした。金継ぎや染め物といったことは、世間一般ではあまりしないらしい。趣味といえるほどではないし、別段難しいことではないので、ほめて頂けるといささか困惑する。会話のネタとしては申し分ないのだが。

そんな私だが、憧れているけれど苦手でできていないことがある。それは農作物を作る、ということ。

 

今回リトル・フォレストという作品を観たので、ネタバレ交えて綴っていこうと思う。

 

東北地方にある小さな集落・小森。近所にはスーパーやコンビニなんてものはない。主人公のいち子は、田畑を耕しながら自給自足に近い生活を送っている。一度は都会にでたこともあるが、自分の居場所を見つけることができず逃げるように戻ってきた。一年を通して、季節のものを植え、育て、採り、食べる、それを繰り返す。大自然に囲まれ、その恩恵と厳しさの両面を通して自分を見つめ直す物語。

 

夏・秋・冬・春、1つの季節で1時間ほどだろうか。全てで4時間程の作品だが、観ていて苦にはならなかった。淡々と、ドラマチックではなく、本当の日常のように静かに過ぎていく。橋本愛さんの いち子がちょうどいい。夏・秋に関しては、自然の美しさや、食べ物の美味しそうさ(いわゆるシズル感)を楽しむ作品。そして冬・春で物語性がぐっと増し、なぜ一人でこんな山奥で暮らしているのか、これからどうするのか…といったリアルな問題と対峙する。

 

作品のなかで物語のキーになるのは、たくさんの食材であるのだが、どれも美味そうで困る。いちいち腹が減る。とれたてのトマトにかじりつきたいし、瓶詰も作ってみたいとおもったし、くるみご飯は初めてみたが、あれもしてみたい。暖炉でパンを焼くというのもあこがれる。餡をお焼きにするのは、私も以前したが、また食べたいと思ってしまう。あぁどうして今の季節には栗が売っていないのか、赤玉ポートワインに漬けにしたら美味そうではないか。毎話そんな感じで困った。

ただリアルな話、それらの食材を手に入れるのは、いろいろ苦労があって、トマトであれば露地栽培は難しいし、鴨を絞めるのはみていて辛い。「わかるけどね」のシーンに込められた言葉が染みる。そう、わかるけどね、でもね、なのだ。

今、私は徒歩10分圏内にスーパーがあり、もう5分歩けばイオンスーパーもある。何不自由ない生活をしているといってもいいだろう。食材は綺麗に陳列され、キュウリなどの野菜はどれもほとんど個体による差分はない。魚はさばかれ、最近では骨まで抜かれて切り身として売られている。そうして私は「生物」を意識する機会が減っているように思う。私が当たり前のように摂取しているそれらが、もともと「生物」であって、「命」であったことをどうしても忘れてしまっているような気持ちになった。きちんと食材と見つめ合っていかねば…。「いただきます」と「ごちそうさま」は欠かさず言っているが、作る段階から命を頂いているのだと意識しなければ、それこそ失礼に当たるだろうとおもった。

 

いち子は一度、都会に出るが居場所を見つけれず、逃げるように小森に戻ってきている。それが いち子にとって、小森で暮らす人々に失礼に当たるのではないかと感じている。なんとなくだが、わかる気がした。私も居場所というものは、まだ見つけられていない。実家を出て2年。まだ自分の居場所であると胸を張って言えるまでにはなっていない。だからと、実家に帰るのも違う気がする。そうやって模索しているのだ。私の居場所を作ることはできるのだろうか。

 

ちなみにだが、これをみて私も自給自足生活がしたい!田舎暮らしがしたい!農作物を育てたい!となるかと言われるとそうでもない。雑草に触れるのは苦手であるし、何より虫がダメなのだ。怠惰な生活を送っている人間であるので、そういった生活は向かないだろう。でもほんの少し、憧れのようなものはある。自然の一部として生きていくことができれば、この頭のなかにあるモヤモヤは薄れるのかもしれない。自然の恩恵をうけ、そして自然に帰ることができれば、少しは私の存在も許されるのではないだろうか。

 

この映画はずっと以前から気になってAmazon videoのウォッチリストに入れるだけ入れて忘れていた。オススメだよとお声をかけて頂き、今回観ることにしたのだが大変満足している。感謝しかない。韓国版もあるそうなので、これも観てみようと思う。

しかしながら梅雨とは困ったもので。まぁそのあとも8月の暮れくらいまで続くのだが、倦怠感と頭痛が背中に纏わりついたままはなれそうにない。無理ない程度に行動して以降とは思っている。

映画・屍人荘の殺人

ガリレオシリーズの映画を観た時にも少しふれたが、私はあまりミステリーやサスペンスものに触れてはこなかった。なので、それがありきたりなトリックだとしても、知識データが皆無に近いため、想像できず おぉ~…と感動できるし、そんな方法があるのかと楽しみながら観ることができる。ある意味、それらを新鮮に楽しめるというのは良いのかもしれない。

 

今回観た「屍人荘の殺人」についてネタバレを盛大に交えて綴っていこうと思う。

 

ミステリー小説オタクの大学生・葉村譲は、先輩でミステリー愛好会会長の明智恭介に振り回され、ホームズとワトソン気取りで学内の瑣末な事件に首を突っ込んでいた。同じ大学に通い、私立探偵の顔も持つ剣崎比留子は、2人に音楽フェス研究会の夏合宿への参加を持ちかける。実は比留子のもとには「今年の夏合宿で何かが起こる」との犯行予告が届いていたのだ。夏合宿がおこなわれる山奥のペンション紫湛荘へと向かい、3人は研究会のメンバーと合流する。そしてその夜、密室状態となった紫湛荘で惨殺死体が発見され……

(映画ドットコムより引用)

eiga.com

 

まず一番に思った感想が「そういう設定、聞いてないんですけど」というものだった。これは映画館で働いているときに観た「プロメテウス」の時と同じ感想である。いやはや、そういう設定なのであれば、さきに言っておいてくれないとびっくりしちゃうじゃないですか…と、理不尽な怒りを覚える。まぁ怒りといっても(#^ω^)←この程度の顔で済む怒りであって、本格的に怒ってはいないので安心してほしい。

 

一見、よくある(コナンや金田一ではよく見る)設定。主人公たちが謎の洋館やペンションに赴くと、何故か密室殺人が起き、しかも嵐やら何かしらの理由で外界との連絡をとる手段が断たれ、クローズドサークルになってしまう。そして1人、1人と殺されていく…、主人公は犯人を見つけることはできるのか!?(まぁできるんだろう)的な。そういう映画であると想像していた。

 

いや、これも間違ってはいないのだが、根本的に違うのだ。普通(他を知らないが)のミステリー・サスペンス小説にゾンビは出てこないだろう。そう、この作品ではクローズドサークルになる原因が ゾンビなのだ。

音楽フェス会場にて、何者かによって感染させられたウィルスにより、注射された もしくは ゾンビに噛まれた人々はゾンビ化してしまう。フェス研のメンバー達は命からがら紫湛荘を目指すのだった。

 

そしてまたもやびっくりなのが、主要キャラクターであると思っていた人物が早々に退場させられてしまうということ。コナンで言えば、毛利のおじさんが早々に退場させられるようなものだろうか。そんなことが許されるらしい。二重でびっくりだった。

 

ゾンビの恐怖と戦い、逃れつつも、荘内で起こった密室殺人を解決するために、主人公たちは苦戦する。思っていた作品とはずいぶんと異なっていたようである。まぁある意味良い裏切り方をしてくれたので、個人的には問題はない。映画の評判もあまりであったが、個人的には2時間飽きることなく楽しめたので良しである。作品を通して、全体的に既視感があったのは、観ているときの恐怖の感覚が金田一少年に似ていたからだろうか。そこはかとなく、金田一少年味を感じる…私だけだろうか。

 

プラスして有難かったのが、ゾンビを退治するシーンの心遣いだろうか。ゾンビを倒すには頭部を破壊しなくてはならない。要は脳にダメージを与えるのだ。シャベルで殴打したり、槍でついたり…etc…まぁそれなりに残酷な末路をたどることになる。その際、頭部へのダメージ映像が露骨に描かれることはなかった。レントゲン写真のようなものに置き換えられ、それによる血飛沫もほとんど起こらない。(ゾンビは流血しないのか?)。眼球に槍が刺さったり…なんて映像を見せられたのならば、速攻で視聴を取りやめていただろう。エログロナンセンスは苦手なのだ。ゾンビ達もそこまでグロテスクではなかったので、許容範囲内であった。

まぁもう一度観るか?と聞かれれば、たぶんNOである。ゾンビ、怖い。

 

ゾンビ映画といえば、過去に1度だけ観たことがある。「ウォーム・ボディーズ」という映画なのでが、あれもそこまで問題なく観ることができた。また観ても大丈夫だろうか。あとゾンビ映画に含めていいのか不明だが、「アイ・アム・レジェンド」も観たことがある。続編企画が始動しているらしいのだが…はて。

 

こんな感じでゾンビ映画もほとんど触れてきていないので、ゾンビ達に態勢がない。アニメでもサンカレアくらいしか見たことがない。サンカレアは可愛かったので漫画もアニメも楽しめたが…。

ゾンビ映画で1つオススメ頂いたのを、観よう観ようで観れないでいる。興味がないわけではなく、単純に怖いのだ。いずれ…必ず!!

映画・ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

自由研究が苦手だった。何をしたらいいかわからないのだ。

例えば「蛍について調べましょう」と言われると、それなりにこなすことはできる。しかし、何か好きな題材を自分で選んで調べてみましょうと言われると途端、何もできなくなる。好きなものが解らない というのもあるし、情報が膨大すぎてどれを選んでいいのか解らない というのもある。そういった点は三十代になった今も変っていない。

これは絵を描くのにも言えて、学生の頃、好きなものを描きましょうといった課題が苦手だった。しかし、これをみて描きましょうと言われるとある程度こなせるのだ。自由であればあるだけ、不自由になるのが不思議でならない。

そういえば今年の目標にある自由研究も、いまだテーマを決めかねている。できれば盆休み中に行いたいと思っているのだが…あぁテーマが…。

ただ私は物事を深く考えるのも苦手である。だから浅い知識しか手に入らない。深い考えや、深い知識というのにはこれからもあこがれ続けるのだろうと思う。

 

みた映画について、ネタバレ交えて綴っていこうと思う。

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

 

数年前に一度観ていたのだが、そろそろもう一度観たいと思っていた映画である。

 

9.11テロで最愛の父を亡くしたオスカー。

彼はアスペルガー障がい の気質を持っている少年だった。検査の結果は未確定。彼は障がい者でもなければ、健常者 といわれる存在とも違う。そんなオスカーには'できないこと'が多く存在する。例えば、知らない人との会話 であったり、ブランコであったり。父のトーマスは彼のそういった性質を理解したうえで、少しずつ改善できるように一緒に「調査探検」として様々なミッションをこなし、ニューヨークの幻の第六地区を探すのであった。

しかし、2001年9月11日。トーマスはアメリカ同時多発テロ事件に巻き込まれてしまう。遺体すら見つからず、空っぽの棺桶を前に儀式的な葬儀をこなす姿にオスカーは理解できないでいた。

それから1年後のある日。やっとトーマスの部屋に入ることができたオスカー。トーマスの部屋は1年前のあの日から何も変わっていなかった。オスカーがクローゼットを捜索していると青い瓶が落下し、割れてしまう。その中にはオレンジ色の封筒が入っていた。そしてその封筒の中には何かの鍵が入っており、また封筒にはBlackという文字が書かれていた。Blackは人名であると推理したオスカーはその鍵の謎を探るべく、ニューヨーク内に存在する472人のBlackさんを訪ねる旅を始めるのであった。

 

 

11歳の少年オスカーが、できないことを克服していきながら少しずつ前進していく姿がまぶしくもあり、彼のもつ辛い記憶や境遇が何度見ても胸が締め付けられるように辛い。

今回特に記憶に残ったのは、母親と言い争うシーンと、ラストの話し合うシーン。母親の「本心よ」という台詞が、痛々しく、辛くて泣いてしまった。ラストの話し合いをするシーンでも、彼女は母として、そしていなくなってしまったトーマス(父)として賢明にオスカーの為に動いていたのだなと胸が熱くなった。

もう一つ、オスカーの らしさ が興味深かった。彼の特定の物事への執着(ポジティブなものもネガティブなものも)や、これを相手には言ってはいけない ということを口走ってしまう点など、わかりやすく らしさ をあらわしていた。あまり症例に対して明るいわけではないので詳しく述べるのは避けるが、細かいところにそういった らしさ が散りばめられていたのがよかった。

 

9.11が起こった2001年。私はまだ小学生だった。遠いアメリカの地で、そういった事件が起きたのだとぼんやりとTVで知った。それまで当然、アメリカや海外の存在は認識していた。しかし海外の今起こっている事件 というものを認識したことはなかったので、たぶん 9.11が初めてになるだろう。そして、私の人生で初めて戦争をリアルタイムに感じたのも、9.11からが初めてだったと思う。当時の私は、第二次世界大戦が終了した際に全ての争いや終了し、今は平和な世の中なのだと信じて疑わなかった。国家間での内乱や、他国同士での争いや、ISの存在というものすら知らず、本当に無知だったのだ。

 

長谷川義史さんの「ぼくがラーメンをたべてるとき」という絵本があるが、そんな当時の自分と重なってなんともいえない気持ちになった。この絵本はぜひ手に取ってみてほしい。

 

9.11が作中出てくると言えば、原田マハさんの「暗幕のゲルニカ」もそうだった。

「暗幕のゲルニカ」では主人公の女性の恋人が9.11で他界していたように記憶している。反戦をテーマとし、現代の女性主人公と、パブロフ・ピカソの恋人であったドラ・マールという2人の女性の視点から描かれる物語であった。

 

「暗幕…」も「ものすごく…」のどちらの作品も理不尽に、しかも唐突に最愛の人を失った悲しみが描かれていて、触れていると、本当につらくなる。

昨今、また情勢的に何もないとは言えない世の中であるが、少しでも、一人でも多く、平和に安泰に過ごせる日が来ることを、私は祈ることしかできない。行動できるほど、強くはないから。そしてどうか、私の大切な人々が、こういったものに巻き込まれてしまわない様に…エゴでも願うことしかできない。

 

今こそ、ゲルニカを。(過去模写した絵と、上記紹介の「暗幕のゲルニカ」)

映画・COCO avant CHANEL

昔から洋服のブランドに疎い。昔は山のように洋服を持っていたが、それらを手放し、ミニマリスト的な生活にシフトし、最低限のみの服だけを持つようになったため、洋服は無印良品ユニクロなどの無地でオーソドックスな形のものだけになった。そのためかより一層、’ブランド’というものが解らないのだ。別段それが良い事とも悪いこととは思っていないのだが、ごくごくたまにハイブランドの商品の話になったとき、それの相場や品質について解らなくて困ることがある。

鞄屋で働いていたが、その鞄ですら怪しい。日本の吉田鞄(PORTER)や山本耀司などであればまだわかるのだが、海外の商品となると壊滅的に分からない。

 

最近、気が付いたことがある。

私は父方の親戚関係が良好ではない。ここ数年、断絶状態である。妹の結婚式で伯父、祖父が参列していたので それ以来ということになる。なぜここまでこじれたのか…の原因は祖母にある。祖母はわかりやすく孫差別をする人だった。父親似の妹は大層かわいがられたが、私は露骨に邪見にされた(当然私も反抗心の強い子どもであったので、私にも非は大いにあることは理解している)。その祖母はいつもハイブランドで身を包み、毛皮のコードを纏い、101匹わんちゃんのクルエラ・デビルのような(本当に似てた)、そんな人だった。そして親戚一同を拒絶するようになったのが、祖母の遺産に関してである。祖母の死後、大量のハイブランド品を孫で分けるということになったらしいのだが、当然私が呼ばれることはなかった(妹もだが)。伯父の娘、伯父の息子の嫁×2、本家の人間2人(孫ですらない)で分けたと事後報告があった。「欲しいなら指輪の1つでもくれてやろう」的な捨て台詞は頂戴したが丁重にお断りした。そもそも初めから大嫌いな人間の遺品など欲しくもなかったので私にとって遺品が1つもないということは問題ないのだ。ただ、そちらが「孫」から自分を外し、関係のない人間に置き換えたのであれば、もう「孫」としてそちらに係わる必要もないだろうと結論にいたった。別段、喧嘩をしたわけでも、揉めたわけでもない。ただ「冠婚葬祭以外の全ての関係を遮断する」という選択をしたに過ぎない。

そして私にとって「ハイブランド」とは、そういった金だけはある内面的美しくない人々の象徴のように目に映るようになり、毛嫌いするようになったのだろう。最近でこそ、そういった偏見をもつこともなくなったが、相変わらず自分でお金をためて買おうと思うには、今のところ至っていない。そもそも経済的にそういったものを買う余裕はないし、余裕ができたのであればポップインアラジン と どうぶつの森(ニンテンドウ スイッチ)を購入し、北海道に旅行するだろう。

 

そんな私だが、1つだけ「これは欲しい!!」と思ったハイブランドの鞄がある。それがシャネルのマトラッセ。シャネルの中でもポピュラーなキルティングバックで、華奢なチェーンが美しい。そしてその中でも(マトラッセか2.55かはたまた他のシリーズかもしれない)、シャネルのロゴの入っていないものが昔発売されていたらしい。今ではプレ値でとんでもない額になるだろう。それが今までで唯一、焦がれたハイブランド商品であった。

 

今回はそのシャネルについて映画に触れたので、ネタバレ交えて綴っていこうと思う。

ココ・アヴァン・シャネル

上記で話したブランド シャネルの創設者である一人の女性について描かれた映画だった。

 

フランスの片田舎の孤児院で姉と共に育てられたガブリエル。施設を出た後、女優を目指し、寂れたナイトクラブの歌手やお針子として働いていた。

そこで貴族 エティエンヌ・バルザンに見初められ、何不自由ない生活を手に入れるが、あるのままの自分を受け入れてくれるアーサー・カぺルと運命的な鯉に落ち、自らのファッション・スタイルを模索していく。

 

映画はガブリエルという少女が孤児院に預けられるところから始まる。母が亡きあと、父はガブリエルを孤児院に預けたのだ。日曜になると会いに来る、それを信じて彼女は待つが、父が再訪することはなかった。

ココは姉とともにナイトクラブで歌い手をしている際にバルザンに出会い、歯に布着せぬ物言いで彼を魅了した。しかし、そんなある日、店主の男性と口論し、姉ともどもナイトクラブをクビになる。女優を目指していたが、それはうまくいきそうにない。そんな折、姉が結婚するからこれ以上は続けることはできない。ここを出ていくとココに告げるのだった。仕事も行く当てもないシャネルはそうして、バルザンの別荘を訪ねるのだった。

 

私の中で、シャネルという女性は、自立して、男性に頼らない、そんな女性だった。しかし実際はそうではなかったらしい。バルザンの別荘で自堕落な生活をつづけ、バルザンとボーイ(カペル)という2人の男性に求められながらも、彼女は自分のしたいことを突き進む。作中では一見、我儘で横暴にもみれる姿だった。

 

当時の女性はコルセットをきつく縛ったようなロングドレスにつばの広い帽子で身を華やかに着飾っていたらしい。マリーアントワネットのような風貌といえばわかりやすいだろうか。しかしそんな姿では、乗馬も容易にはできない。優雅に横乗りすることはできても、それではスピードを出せないし乗りこなすことは難しい。ココはまるで少年のようないでたちで人々の前に現れ、馬を乗りこなす 「変わり者」として描かれる。ズボンとは男性が履くものであり、女性が履くことは とても変わったことだったらしい。私が思っていた「男性からの自立」とはかけ離れていたとしても、当時ではものすごい一歩だったのかもしれない。

 

映画全体の感想としては湿度が高い映画だったということ。ココ・シャネルの人生を描いたというよりは、ココがシャネルを立ち上げるきっかけまでを描くようなそんな作品だった。そのため、社会運動に関してや、デザインについてなどは描かれることはなく、あぁこれはヒューマン映画ではなくラブロマンス映画なのだなと。映像も全体的に重い色味の為か美しい、と思うところが少なかったのが残念に思う。あまり色彩がないのは、その時代を反映してなのか、最後のシーンを華やかに際立たせるためなのだろうか。他にもココを描いた作品は多くあるらしいので、いずれ触れてみてもいいかもしれない。

 

そういえば、映画を観終えた後に気が付いたのだが、ココを演じていたのはアメリを演じていた女優さんらしい。アメリも観ようと思ってかれこれ何年たつだろうか。そういった作品がたまっていくというのは、嬉しい悲鳴であるのだが…。時間貧乏を改善しなくては

より よく・餡

5月某日。樹木希林さんの あん という映画を拝見した。タイトルの通り、餡が重要な役割を果たしている映画で、とても暖かく、また時間を空けて改めて観たいと思える作品だった。作品については、以下で以前綴っているので、このくらいにして。

yu1set.hatenablog.com

 

何かを作る姿を拝見すると、大体のことはやってみたくなる性分の私。今までも手を出してきた物事は数知れず。今回もご多分に漏れず…というやつで、さっそく小豆を購入してきた次第である。

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大き目の鍋に小豆を入れる。私が購入した小豆は、水に浸けなくて良いらしいので、全体を洗い、水気を切ったものを入れている。

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作り方の説明というほどでもないのだが…

まずはゆでこぼしという作業。小豆と小豆量の3倍の水を入れ、中火にかけて15分程コトコトと煮る。ゆで汁が餡子色に変化していくのは観ていて面白い。この時点で結構、餡の香りがするから不思議である。勿体ないような気もするが、煮汁は捨てて、小豆はザルにあげ、水気を切る。

 

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水を入れ替えて、小豆が柔らかくなるまでゆでる。この時鍋は綺麗に洗う方がいいらしい。なんでも渋みが鍋についているらしい。

ゆでているとどんどんと灰汁がでるのですくう。終始灰汁が途切れないため、約30~40分間、鍋から離れることはできない。これが結構熱い…。夏場はやるもんじゃないな…と決めた。

 


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水分が飛び、小豆もだいぶ柔らかくなってきたら、砂糖を数回に分けて入れる。餡でモーゼの奇跡を起こせるくらいに水分が飛んだら、火を止め、塩を加えて完成。


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翌日に使用するため、粗熱をとって、タッパーに入れて保存。ちなみに、使いきれなかった量は、少量ずつラップにくるんで、冷凍保存している。シート状にしているので、同居人は食パンを焼く際にそのままのせてトーストしているらしい。

 

餡を作ってみての感想としては、意外と簡単にできるのだということ。コスト的には市販の方が安くつくかもしれないが、市販の餡より格段に(私としては)美味だった。これくらいの手間であれば楽しめるので、寒くなったらぜんざいなども挑戦してみてもいいかもしれない。

 

今回は折角なので、おやきを自宅で作ってみることにした。(粉が余っていたので)f:id:yu1Set:20220523235231j:image

とはいえ、生地を作成し、1時間ねかし、


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お好みの具材を入れて、

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フライパンで焼くだけ

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餡子入れて焼いたのがこちら。餡がはみ出たところが焦げているのはご愛嬌。
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ちなみに冷蔵庫に余っていたきんぴら(奥2つ)、タラコ(手前2つ)も入れて作成。

どれも、モッチリとした弾力があり美味だった。個人的には具材はできるだけ詰め込んだ方が美味。餡は少々包むのが困難だが、予め薄く大き目に皮を作り、餃子のように包むと包みやすかった。

(それが本来のおやきの包み方か否かは微妙だが)

 

まだ餡は残っているので、今度はどら焼きを作ろうかと思っている。それも楽しみだ。

映画・あん

餡。つぶ か こし か論争は、タケノコの里 か キノコの里 か論争よりも古くから存在するのではないだろうか。どちらもそれぞれの良さがあるので、私はどちら派と聞かれると困ってしまうものがある。おはぎの粒あんのようにプチプチとしたものも、赤福のようにこしあんで滑らかに包まれるのも、それはそれで良いのだ。

そういえば最近になって、和菓子を身近に感じるようになった気がする。桜餅も季節の和菓子も、学生の頃より頻繁に見かける。嗜好が変化して、それまで見えていなかったものが見えるようになっただけかもしれない。「月曜日の抹茶カフェ」で和菓子が取り上げられていたが、あれもよかった。そんなわけでマイブームというほどでもないが、和菓子を食べる頻度が飛躍的に向上した今日この頃。初めて御座候を購入して食べてみた。


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ほうじ茶によく合う。

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ここの御座候は粒あん。ちなみにもう一つは白あん。美味だった。余談だがこの御座候は商品名であるのでそう呼んでいるのだが、地方によって呼び名が異なるらしい。回転焼きとか大判焼きとか。これまた論争が起きそうなものである。

 

はてさて、餡を食べたらとても愛おしくなってみた あん という映画について、ネタバレ交えて綴っていこうと思う。

春。満開の桜の下、小さなどら焼き屋「どら春」では今日も常連である中学生が和気あいあいと話しをしている。その横で、一見寡黙そうで不愛想な一人の男がどら焼きを焼いている。男は雇われ店長で、名前を千太郎というらしい。彼は、常連客と入れ替わりでやってきたワカナという少女に失敗したどら焼きの皮を無料でこっそりと渡していた。彼女の家は高校進学もできるかわからないほど、不安定な家庭だったのだ。

そこにとある老婆がやってきた。名前を徳江というらしい。店先にあるアルバイト募集の紙をみて、自分を雇ってほしいという。自給300円、いや、自分は指が不自由であるので200円でも良いと老婆は言う。しかしどら焼き屋の仕事は長時間立ったままであったり、ボールや鍋も重く重労働であり、老体の彼女には無理がある。それらの理由で店主の千太郎は、老婆に雇用はできないと断り、どら焼きを1つ渡して追い払ってしまった。それでも老婆は諦めず、再度来店しこの店のどら焼きは餡が良くない、自分の作った餡をぜひ食べてほしいと 自作した餡を置いて帰っていく。その餡は、その店で使われていた業務用の餡とは香りも味も全てが違うものだった。

桜が散り、葉桜に染まるころ老婆は店にやってきた。そして店主は餡を食べたこと、ぜひ店を手伝ってほしいということを老婆に伝える。すると老婆は泣いて喜び、翌営業日は日が昇る前から準備をしましょうと告げるのだった。

まだ外も暗いうちから作業ははじまった。つけておいた小豆を1つ1つ確認し、皮の状態を確認する。そして、時間をかけて丁寧にゆっくりと、小豆をものではなく 来店客のように接し おもてないする。湯気の香りが変わり、小豆が少しずつ粒あんになっていく。数時間かけて作られた餡は無事完成。2人はどら焼きにして、その餡を試食する。もともと甘党ではなく、どら焼き1つを完食できないという店主だが、老婆が作った餡を使ったどら焼きであれば食べられると絶賛する。何故、そんな彼が店主をしているのか…。それからどら春には多くの人が訪れるようになる。2人が作ったどら焼きの評判が良いのだ。開店前から店先には数人の待ちがでるようになった。2人はささやかな幸せに包まれているようだった。

それからしばらくして、店のオーナーである女性がやってきた。老婆のことで話があるらしい。オーナーの女性は知人から老婆がライ(ハンセン病)なのではないかと聞いたらしい。そして老婆の住所を確認したところ、彼女が住んでいるのはハンセン病患者の方の療養所だった。世間の評判を気にし、老婆を解雇することを迫るオーナー。店主は先代のオーナーに恩があるらしく、無視することはできないらしい。男は困ったように「少し、時間をください」と答えたのだった。

老婆は最初は餡をつくるのみの仕事であったが、次第に接客にも参加するようになる。そして常連の中学生やワカナとも談笑をかわすようになる。そんなある日、ワカナは老婆に指はどうしたのか聞く。老婆の指先は曲がってしまっていて、うまく動かさないらしい。顔を曇らせる店主の横で、老婆は「若いころに病気をしたの」と告げるのだった。そしてワカナは図書館で、老婆の病気がライ(ハンセン病)であることを知ってしまうのだった。

それから店先にはピタリと人が来なくなってしまう。老婆は悲し気に店先に招き猫を置くが、あの頃のように客足は戻りそうもない。近所に老婆の病気のことが広まったのだろう。途方に暮れるなか、老婆は店を去ることにする。店主は何も言えずにただ見送るのだった。

 

 

浅学で申し訳ない限りなのだが、ライ(ハンセン病)に関してほとんど無知であった。ハンセン病という名前こそ知っていても、それがライと呼ばれていることすら私は知らなかった。

人類の歴史上もっとも古くから知られ、恐れられてきた病気の一つであるハンセン病は、らい病(Mycobacterium leprae)が主に皮膚と神経を侵す慢性の感染症ですが、治療法が確立した現代では完治する病気です。1873年にらい菌を発見したノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師の名前をとり、ハンセン病とよばれるようになりました。

www.nippon-foundation.or.jp (引用元URL、以下も同様) 

 

老婆の徳江は過去にハンセン病患者として、療養所に隔離されていたらしい。戦後の日本ではどのような扱いを受けてきたのであろうか。

 

ハンセン病に罹患した人びとは遠く離れた島や、隔離された施設へ追いやられ、自由を奪われ「leper]という差別的な呼ばれ方で、社会から疎外された状態で生涯を過ごすことを余儀なくされました。

(中略)

社会の無知、誤解、無関心、または根拠のない恐れから、何千万人もの回復者およびその家族までもが、ハンセン病に対する偏見に今なお苦しんでおり、こうした状況を是正する社会の取り組みは遅れを取っています。

古い時代から日本の患者には、家族に迷惑がかからないように住み慣れた故郷を離れて放浪する「放浪らい」と呼ばれた方も数多くいました。その後、明治時代に入り「癩予防に関する件」「癩予防法」の法律が制定され、隔離政策がとられるようになり、ハンセン病患者の人権が大きく侵害されました。第二次世界大戦後も強制隔離政策を継続する「らい予防法」が制定され、苦難の歴史は続きました。療養所で暮らす元患者らの努力によって、「らい予防法」は1996年に廃止され、2001年に同法による国家賠償請求が認められました。

余談になるかもしれないが、大谷吉継もこのハンセン病患者だったのではないかと言われているらしい。あの茶会での逸話を読んだことがあるが、そういうことだったのか。

 

この映画でテーマになっているのは 差別 であろうことは間違いない。老婆も店主もワカナも背景にはそれぞれ背負っているものがある。そしてそれぞれに差別はついてまわる。

老婆はずっと隔離される生活をしてきて、だからこそ外で働くというのはどれくらい嬉しいことだったのだろう。それを認めてもらえるというのはどれくらい幸せなことだったのだろう。そして、自身のせいで(差別のせいで)店が困窮する事態になってしまったとき、どれくらい悲しかったことだろう。諦めが先にくるのだろうか。怒りか、悲しみか。想像すると本当に胸が痛い。

 

この映画は2015年の作品であるので、当然、現代のCOVID-19のことなど到底想像もついていなかったころに作られたわけである。それなのに、どうしてこんなにもリアルで身近に感じるのだろうか。私がこの2年間で思ったことは「正しく恐怖しよう」ということだった。COVID-19を軽んじることはしない。ただ過剰に恐怖するのではなく、適切に、情報をきちんと獲得しようということだった。

まだ緊急事態宣言が発令されるよりも前の2020年2~3月くらいの頃だっただろうか。当時勤務していたショッピングモールでは情報が錯綜していた。どこの店舗に出た…とか、消毒はどうするのかとか。県内で出て、何処の店舗にいったかもしれないという不明確な情報が、強制するかのように回ってくる。それらの情報はあくまで噂なのだった。県の情報開示があったわけでもなく、館から御触れがあったわけでもない。そういった情報に恐怖している人々が、私にとっては恐怖だった。

 

作中で印象に残ったのは、オーナーが店主に老婆の病気について詰め寄った後、オーナーの女性は過剰なほど手を何度も何度も消毒液で消毒するのだ。

感染経路はまだはっきりとわかっておらず、治療をうけていない患者との頻繁な接触により、鼻や口からの飛沫を介し感染するものと考えられていますが、ハンセン病の感染力は弱く、ほとんどの人は自然の免疫があります。そのためハンセン病は、’最も感染力の弱い感染病’とも言われています。

あくまで想像だが、このオーナーの女性は噂で老婆のことをしり、特にそれについて調べることもなく、ただ今まで聞きかじった情報だけをもって店主の前にあらわれたのだろう。そしてそれが差別であるという自覚もないのだ。

ただ私はこれを真っ向から否定することはできない。人間は自分とは違う何かを見た時、強く拒絶して自分(達)を守ろうとする。そういった防衛反応のようなものを否定できない。私も、もし、何も知らない状態で目の前でそういうことが起こったとき恐怖しないでいられるとは思わない。現に、まだCOVID-19について解っていなかったあの頃は恐怖で仕方なかった。だからこそ、知ることは大切だと思った。

 

 

ここ最近、続けて樹木希林さんの出演されている作品を観たのだが、やはり希林さんの演じられる役はどれも良い。愛おしいというか、人間味を感じるというか、素晴らしい方だと思う。ちなみにワカナの役を演じられていたのはお孫さんだったらしい。知らない女優さんでこれから演技はになりそうだと思い調べたら、お孫さんとあったので驚いた。そして店主をつとめる永瀬正敏さんがちょうどよかった。寡黙過ぎず、不愛想すぎず、軽すぎず、重すぎない。なんとちょうどいい配役か。

 

全体を通してそこまで台詞が多いわけではないが、それでも優しく紡がれていく言葉が愛おしく美しかった。映像も自然の描写が美しい。老婆と店主が2人で餡をつくるシーンの小豆の輝きも美しかった。美味しそう、というよりは芸術的に感じたのは何故だろうか。

 

あと作中に出てきた くめがわ電車図書館 がとても気になった。西武鉄道の引退車両を図書館として使用しているらしい。調べてみると市立図書館ができるよりも前からあったらしい。図書館関係に少しでも携わっている人間であるので、とても気になる。行ってみたい場所がまた一つ増えた。

www.city.higashimurayama.tokyo.jp

 

この映画はまた時間をおいて繰り返しみるだろう。そういう作品に出会えたことを嬉しく思う

映画・ノマドランド

25歳くらいの頃だったか。ミニクーパーに乗っていた頃がある。黒のぽってりとした丸いフォルムが愛らしく、手も金もかかる車であったが、今はいい思い出となっている。今後大きく生活環境が変わることがなければ、もう自家用車をもつことはないだろうと思っている。そもそも車が愛らしかっただけで、運転が好きなわけではなかったのだ。

だがその当時、ちょっとした野望のようなものがあった。ルパン三世の「カリオストロの城」を観たことがある方は想像しやすいと思うのだが、あんな感じで旅をしたかったのだ。車の後ろに荷物を詰め込んで、できれば日本全国、観光地は勿論だが、そうではないありふれた場所に行ってみたかった。ゲストハウスに泊り、現地で労働をして金銭を補充しつつ、長い旅をする…、というのが当時の夢だった。残念ながら女一人、そのような旅をするのは危険だと周りに止められてしまい、実現することはできなかった。今も、方法を変えていつか、実現できたらと思っている。

 

今回は映画ノマドランドについて、ネタバレ交えて綴っていこうと思う。

ミニマリストが観るべき映画〇選!なんていう記事をみれば、高確率のっている映画「ノマドランド」。実際に私も興味があったし、いつかは観なければならないと、よくわからない義務感のようなものをもっていた。やっと観れたのだが、とても興味深い内容だった。

 

ネバダ州のとある企業城下町に暮らす、60代女性ファーン。旦那が亡きあともその町にとどまっていたが、リーマンショックの影響で徹底を余儀なくされ、長年連れ添った家を失ってしまった。彼女は売れる荷物を売却し、キャンピングカーを購入する。残していく荷物は貸倉庫に預け、それ以外はそのキャンピングカーに乗るだけ。そして彼女のノマド生活が始まる。

アメリカ各地で季節労働者として各地を転々とする。Amazonの配送センターで勤めているとき、リンダ・メイという女性に出会う。彼女もリーマンショックの影響で財産を失った女性だった。リンダはファーンに「砂漠の集い」に来ないかと誘う。砂漠の集いとは自身もノマド生活者であり、YouTubeなどで情報を発信しているボブという男性が、ノマド生活者の支援を目的として催されているイベントであった。そこではノマド生活をするうえで必要な情報が共有されたり、不用品の交換、そして人々の交流の場となっていた。そこでファーンはスワンキーという女性やデヴィットという男性と知り合うこととなる。ファーンは多くの出会いと別れ、そして再会を繰り返しノマド生活を続けていく。

 

この映画は、ジェシカ・ブルーダー原作の「ノマド:漂流する高齢労働者たち」を映画化した作品らしい。

ノマド(nomad)は英語で「遊牧民」の意味

kotobank.jp

もともとフランス語で遊牧民・放浪者の意味であり、本来は「定住する場所がなく、移動しながら暮らしている人々」のことを指す。最近はオフィスをもたないで様々な場所で働く方々のことをノマドワーカーと呼んだりしているし、財布などを手掛けるブランドのノマドイはこのノマドから名前を得ている。割とここ数年、なじみのある言葉になったように私は思っている。

nomadoi.jp

ノマド生活とは、定住することなく移動しながら暮らす生活というわけだが、ホームレスとは違うらしい。作中でファーンが「ホームレス」ではなく「ハウスレス」だと断言している。家という形にこだわらず、自分のHome(住まい)はあるが、House(家)はないということか。このシーンが特に印象に残った。彼女にとって、そこは譲れない誇りのようなものだろうかとふと思った。

 

ノマドの人々の世界では別れは「さようなら」ではなく「またね」らしい。今は別れてしまうけれど、いつかまた会える。それは他界した人も同じこと。すがすがしいような、温かみのあるようなものを感じた。

 

ファーンは最後、自分の過去を整理し、貸倉庫に預けていた、要は過去と今を繋ぐ荷物を全て処分する。今現在必要な荷物であるキャンピングカーにのっている荷物だけを背負って旅を続けていく。正直にかっこいいと思った。シンプリストを目指している私だが、私はここまで捨てきることはできない。当然境遇が違うので同等に扱うものではないし、比較するものでもないのだが、この潔さのようなものを私にも取り入れることができたらと思った。

 

冒頭で旅をしたいと言ったが、いつか私も鞄一つをもってあちこちを周ることができるだろうか。旅、したいなぁ。