より よく 生きる

よりよく生きるために

本・推し、燃ゆ

例のごとく読了した本について綴ろうと思う。そして例のごとく盛大にネタバレしていこうと思う。悪気はない。 

推し、燃ゆ

著者:宇佐見りん

芥川賞受賞作品

 

若く、青々しい作品だと思った。実際作品の中は「青」という色が犇いているのだけれど、その青は空のような爽快感がなくどちらかというとマットな青色であるように感じた。セルリアンブルーでもなく、空色でも、浅葱色でもない。だからといって紺色のような重い色というわけでもなかった。燃えるような赤はどこにもなかった。

 

感想を時折交えながら作品をざっくりと説明しよう。

高校生の主人公あかりが推しているアイドルグループの一人 上野真幸はファンを殴ったことで炎上する。

あかりは日常生活に支障をきたすレベルに社会に適合できていない。作中では名言されていないが発達的な問題を抱えているのだと思われる。勉強はできず、学校でも保健室に立ち寄ることが多い生徒である。そんな彼女は推しを解釈しすることに心血を注いでいる。三単現のsは覚えられなくとも、推しの出生やらなにやらは覚えられる。アルバイト先で非マニュアル的な会話はできなくとも、SNSで愛を綴り、ブログで解釈を綴り自らのファンを築くことさえできている。要は推しのことだけはコミュニケーションが取れる。そして自他ともに認めるガチ勢であることに誇りをもっている。彼女は恋愛的に彼を愛しているというわけではなく、有象無象の1つでありたいと願い、ただただ真っ直ぐに推しを自らの背骨にしている。自らの生活を切り売りしてでも推しを支えようと…いや、義務的に身を削っていたと言った方がいいかもしれない。愛ゆえに背骨にしているというよりは、それしかないのだろうなという切迫感があった。彼女が人とつながるには推しというツールが必要である。会話の内容も、自分が働くこと、そして歩くことでさえ推しの存在が必要になる。まるで無意識のうちに強迫的に摂取し続けているようにさえ見える。偶像崇拝やらいろんなものが混ざり合った、他者から見ると歪な、ただ本人から見ると正義がそこにある。現代のそういった崇拝にも似た偶像への距離感であったりというのが、生々しく描写されているように思う。

 

しかしながら最終的に推しのアイドルグループは解散し、推しは芸能界を引退する。そして推しの左薬指には指輪がはめられていた。推しはアイドルという崇拝の対象ではなく、ただの人になった。 

綿棒をひろった。膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。

 自分が滅茶苦茶になってしまう前に、いっそ自分を壊してしまおうと身近にあった綿棒を思い切り、今までの自分自身への怒り・悲しみをたたきつけるように床にぶちまける。しかし結局は、自分で後始末を済ます。あかりは這いつくばる姿が自分の生きる姿勢だと思うわけだが、両手両足をついている姿が私にはまるで背骨に頼って立つことができなくなってしまったように見えた。推しは全身を支える背骨であり、それがなくなってしまった以上、自分の頭も支えることはできない。それであれば、両手両足を使うほかない。そしてどこか’あかちゃん’に戻ってしまったようなそんなふうにも、背骨だけから全身への感覚を取り戻すことで何も憑依していない0の自分に戻ってしまったようにも見えた。(途中でてくる’あかちゃん’というニックネームはこれのフラグなのか…いや考えすぎか)。

 

少しそれるが、推しとの距離が開いていくにつ入れて、推しのテーマカラー(青)への扱いが雑になっていくのが個人的にひかれるところであった。それまでであれば青はそれはそれは神聖なものであったのに、後半は「青い座席を見るだけで気持ちが悪く」やら「もとは青かったのだろう色褪せたベンチ」とぞんざいな扱いをうける。こういった解りやすい比喩表現はみていて楽しい。

 

ところで。折角「推し、燃ゆ」を読むのであるから、読了のブログをまとめるときは自分の推しについて綴るぞ!などと息巻いていたのだがやめにしようと思う。なんとなく、ここで推しの話はしたくない。

代わりに推しに対する愛情について少し綴ろうかと思う。よく自分で思うのは、推しへの感情が「気持ち悪い」ということである。これは推しが気持ち悪いのではなく、推しを思う自分のことが気持ち悪いのである。何故自分はこんなにも歪んで推しを愛するのだろうと思っている。私は推しのことを網羅的に調べ、時系列をおい、そこに自分の影を探すようになる。よく「そんなに愛しても、貢いでも、愛してもらえることなんてないのに」といわれるが安心してほしい。推しから配給される様々なもので心も体も満たされている。そもそも二次元から始まったオタク活動であるので、実態のないものが愛を返してくれることなど最初からないのだ。対象が二次元であろうが、生身の人間であろうが、モニターの奥に存在していることに大差はない。そしてないものは自分の脳内で生み出せばいい。何のための脳みそだというのだ、想像しろ。幸せは自分で補正するものである。あぁ自分で言っていて気持ちが悪い…これ以上醜態を晒すのはやめよう。

ただこれは二十代までのことでここ数年、そこまで推しを愛することができないのだ。深入りできない。高校生や二十代前半というのはそれこそ主人公のように、推しに全財産をささげていいと思っていたし、推しを追いかけて一人で沖縄まで飛行機で飛ぶような人間だった。しかし最近はとんとである。あれほど熱烈に推しを愛していた私は何処に行ってしまったのか。

作品を読んでいると、当時の自分の青さ見るような恥ずかしさや気持ち悪さがまざまざと思い出された。別段黒歴史というわけではないので、青歴史ということにしておこう。