より よく 生きる

よりよく生きるために

より よく・映画③ と ポップコーン

さいころからジブリ映画が好きである。全てを観ているというわけではないのだが、メジャーどころはおさえていると思う。トトロであるとか、ラピュタであるとか、何度も観てきた。

 

8月の金曜ロードショーではジブリ3本立て。今回は「もののけ姫」「猫の恩返し」「風立ちぬ」であったが、「もののけ姫」以外はリアタイできた。

猫の恩返し」はそれこそ何度も何度も「耳をすませば」と合わせて観た。猫の男爵 バロンも格好いいのだが、個人的に好きなのはムタさん。ハルちゃんが猫の国にさらわれるシーンでは、バロンは帽子やスティックを手にしてから助けに行こうとするのに対し、ムタさんは一目瞭然に走り出す。口では悪態をついていても、いの一番に助けにいこうとするところが いけにゃんだと思う。何より可愛い。コミックでは 猫のゆきちゃんは捨て猫ではなく、ハルちゃんの家の猫であり 交通事故で他界していたように記憶しているがその設定が映画では取り上げられてはいないようである。どちらにせよ、あの爽やかでのどかな感じがいい。それまで優柔不断で世間の「いいといわれるもの」に流されていたハルちゃんが、冒険を経て自分を持って ある意味で自立していく姿が好きである。

風立ちぬ」は2回目だと思う。以前一度観たのだが、賛否あるだろうなというのが感想だった。今までのジブリは子どもが観て楽しい一面の裏側に大人が観ても何かを感じられる一面が隠されていたように思う。「トトロ」であれば子どもが観れば新鮮で トトロや猫バスのワクワクがあり、その反面 大人が観ればどこかノスタルジーで懐かしい一面がある。しかしながら「風立ちぬ」は時代背景上 そうならざるを得ないが大人向けに作られているように感じた。零戦や戦争、肺結核など なんとなくの知識では楽しめないのではないだろうか。いつかしら、ちゃんと知識をつけた状態でもう一度観たいとは思っている。

よく問題にあげられているタバコのシーンであるが、あの時代はそうであったことを使って あることを表現したいのであれば、ある程度 今 非常識であると思われることをしても致し方ないと私は思う。なおこさんは 吐血した以上、自分の命がもう長くないことが解っている。同じ病で母を失っているという台詞もあった。それでも愛する じろうさんと一緒にいたい。じろうさんがタバコが身体によくないと言っているが、あえて それでも 一緒にいたいという表現なのではないだろうか。二人は近い終わりをきちんと意識しながら一緒にいる。子どもの教育によくない!と目くじらを立てるのであれば、その家庭ごとに説明してやれと思う。

ただ一個人の感想としては、駿さんがこういう女性や設定が好きなのだろうなぁ…というのはひしひしと感じた。全てでは当然ないが一定の男性が求める女性像とは、美談とはこういうことなのだろうかと 少々ひねた目で見てしまう。あぁ純粋に物語を楽しめる目が欲しい。

 

そして「もののけ姫」。あとで観よう 明日こそ観ようで やっと観れた。折角観るのであれば と、ポップコーンをはじいてみた。 
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始めて自宅で作ってみたのだが、バターとトウモロコシと塩をフライパンで温めて、暫くしたらパチパチ ポンポンと音が跳ねるので面白い。しかも実際にポップコーンを買うよりも随分とお得なのだ。次は何かフレーバーを足してみようか。カレーか明太子なんかもいいかもしれない。甘い物よりしょっぱいものが個人的には好きである。
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自宅で簡単にポップコーンをはじけるようになったので、これでいつでも おうち映画館が楽しめる。真剣にホームプロジェクターの購入を検討しているのであるが、やはり高価なものであるので、しばし悩み中。折角自室には白い壁があり、何も置いていないので使わない手はないのだが…。

 

話を戻して「もののけ姫」についてであるが、これも観るのは2~3回目だろうか。実家にはDVDがあったのだが、トトロやラピュタのように ちょっと映画でも観るかぁ~の軽いノリでは観ることができない映画であるし、たぶん一人で観るとそのまま闇落ちしてしまいそうで避けていた。今回は同居人を無理矢理巻き込んで(そのためのポップコーンである)数年振りのトライである。

 

ストーリーは東北の方でまだ縄文文化や自然崇拝が残っている地方に住んでいたアシタカが祟り神を倒してしまうところから始まるが、冒頭からいきなりのシーンだったのだなと驚いた。その後、祟り神になってしまうであろうアシタカはひぃさまに体よく厄介払いされ、西に旅立つ。そこで戦場に巻き込まれたりするシーンでこれが室町時代後期の設定であったことを思い出す。世は信長が将軍を追放しようとしている頃か、もっと以前の話であったと思っていた。こういう時代設定をちゃんと把握していると台詞の1つ1つも違って見えて面白い。

子どもの頃にはじめてこの作品を観た頃は、弓でいられた腕が吹き飛ぶことも、首が飛ぶことも何ら違和感がなかった。弓矢の威力を知らないから そういうものなのだと思っていた。しかしながら今観ていると、それは当然尋常ではないことと知っているわけで…。祟りを受けたアシタカは人ではなく神(祟りだが)に近づいていることで、ヒトならざる力を持ってしまったのだなぁと解る。同じことがタタラ場から去るシーンでもうかがえる。山狗の娘 サン を抱えたまま、しかも腹を撃たれた状態で、10人掛かりでなければ無理な扉を開く。当時はそれがアシタカは主人公でヒーローだから、それくらいしちゃえるのか!くらいに思っていたが、違ったのだ。

そういえば、エミシの村で生涯思い続けると誓ったカヤという娘がいながら、サンのことが好きだとアシタカはのたまうのだが、当時はなんて気の多いやつなのだ!と違和感であった。今にして思えば、時代は室町後期であって、今のように一夫一妻の世ではない。別段、複数の相手がいてもおかしくない。

もののけ姫では 人間 対 そこに住まう神々&自然 がざっくりとした構図である。人間側にはタタラ場の人々もいるし、ジコボウなんかは将軍から遣わされた人間であって、実はバックグラウンドが存在している。タタラ場では鉄をつくり、石火矢をつくる彼らはいろんな意味で注目される存在だと思う。鉄を作るのに、一体どれだけの木が必要であろうか。

一般的には、砂鉄 8 トン、木炭 13 トンから 2.5 トンの鉧塊ができた。(資料により異なる)この中の炭素含有量 1~1.5%の部位が「玉鋼(タマハガネ)」と呼ばれ、全体の 1/3~1/2 程度であり、日本刀などの高級刃物に使われた。
1回に使用する木炭の量を森林面積に換算すると約1ha となる。 そのため継続してたたらを経営するためには広大な山林を必要とした。

参照:https://www.sff.or.jp/content/uploads/H29houkoku.pdf

当然、時代や方法によって異なるとは思うが、膨大な木材や資源が必要となっていたことに違いはない。タタラ場の周りをみると、丸裸になった山々が見て取れる。伐採されてしまった山に、猩猩たちが木を植えようとしていた。彼らは何の象徴なのだろうか。そういえば、猫の恩返しで、猫王が監視カメラでハルちゃんとムタさんを監視していたシーンで「木を植えた男」のオマージュである「木を植えた猫」というVHSが置いてあったように記憶している。気にし過ぎだが気になる。

最終的には何もかもがリセットされた状態になるのだが、両者痛み分けのような感じである。勧善懲悪で人間が勝利する訳でも、自然がすべてを淘汰するわけでもない。森の中の生物は死に絶え、あれだけ多くいたコダマも最後に残っていたのは1匹だった。緑は帰ってきたが、まだ幼子の状態でこれから茂っていく状態。一方のエボシも「またいちからやりなおし」といっているので、生き残った民とまたやり直すのだろう。また最後にアシタカは「サンは森に、私はタタラ場に残る、また会いに行くよ」といったことを言っているが、人間と自然は触れ合うことはできても、まじりあい1つになっていくことはできないのだろうとおもった。どんなに気を使っても、人は自然を消費しないで生きていくことはできないし、自然は人に気を使うことは当然ない。自然のアニミズム的存在である神も、同じなのだろうか。

私はエシカルやらを勉強しているが、それでも日々電気を使うし、水道水も使用する。食事をとれば生物の命を頂くし、そういった人間の避けようのない業のようなものといかにして向き合うのか…とりあえず、優しい存在でいたいとは思っている。

 

次の映画は何にしようか、観たいものはたくさんあるが。ほっこりしたい気分ではある。