より よく 生きる

よりよく生きるために

本・まぐだら屋のマリア

今から10年ほど前に舞台鑑賞にはまった時期があった。それまで読書か映画しか知らなかった私には、今、目の前で演じられているという リアルな臨場感 に堪らなく興奮を覚えたのだ。

ノートルダム・ド・パリや髑髏城の七人など有名どころも観たが、それでもやはり一番好きだったのは「マグダラなマリア」シリーズだった。マリア・マグダレーナの来日公演、魔愚堕裸屋という娼館を舞台にマリアさんや、津田健次郎さん演じるグレイス、その他そうそうたるメンバーが歌って踊って…と、なんとも華やかで耽美な世界だった。賛否あったが演者だけでなく観客もドレスアップして観覧するという日があった。私個人としては面白いイベントという感覚であったので、当時できるだけのお洒落をして舞台開場まで向かったものだった。念入りに髪をまいて、いつもは使わないアイシャドウで化粧をして、お気に入りのパーティードレスを着て、普段より少し高いヒールの靴を履いて…。その名残というほどでもないのだが、今でも舞台やコンサートを観に行くときは正装でいくようにしている。それが私なりの礼儀といえばいいだろうか。準備する時間が、それだけ楽しみにしていたという現れになれば、幸いである。

劇中にでてくるマリアさんは懐が深い人といえばいいだろうか。包容力であったり、救いであったりの優しさを持つ。しかし嫌なものは嫌だというし、自分や周囲に攻撃を仕向けてくる人には容赦がない。アンナの後始末に関しては、厳しい一面も持つ。

マグダラなマリアは、タイトルの通りマグダラのマリアからインスピレーションをうけていると思われる。マグダラのマリアとはどんな方だったのであろうか。もともと娼婦であった女性がイエス・キリストにより改心し、その後イエスに従った…という認識だった。少し調べてみたところ、違うらしい。

マグダラのマリア」とは、新約聖書の中のマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの『福音書』に登場し、イエスに従った女性です。イエスとともに福音の旅をし、イエス磔刑と埋葬、復活に立ち会います。

マグダラのマリア」は、'罪深き聖女'としてのイメージが一般的です。その罪とは、イエスと出会う前に娼婦をしていたとする説です。ところがマリアが娼婦だとする記述はどこにもないのです。

『ルカ福音書』では、’七つの悪霊を追い出していただいたマグダラと呼ばれるマリア’との記載がありますが、定説である「回心した娼婦」であるとの記述はどこにもありません。

この定説は、キリスト教が発展する中ののちの時代に付与されることになるため、初期のキリスト美術では、イエス磔刑や復活の場面にのマグダラのマリアが登場します。(以下のURLより参照)

biz.trans-suite.jp

諸説あるとのことなので、名言はできないが、なんとなくマグダラのマリアについてわかったような気がしないでもない。この他にもマグダラのマリアは多くの作品のモデルになっている。

 

今回も読了した本についてネタバレ交えて綴っていきたいと思う。

まぐだら屋のマリア

著:原田 マハ

東京・神楽坂の老舗料亭「吟遊」で修業をしていた紫紋は、料亭で起こった偽装次元を機にすべてを失った。料理人としての夢、大切な仲間。そして、後輩・悠太の自殺。

逃げ出した紫紋は、人生の終わりの地を求めて彷徨い、尽果というバス停に降り立った…。過去に傷がある優しい人々、心が喜ぶ料理に癒され、紫紋はどん底から生き直す勇気を得る。

 

東北の高校を卒業し、10年は見習いで良いという覚悟をもって老舗料亭での辛い修行に耐えてきた。将来の夢は田舎の母を店に招いて、料理を振る舞うことだった。しかし紫紋の日常はある日、突然、何もかもが崩れ去る。料亭で行われていた食品偽装が内部告発されたのだ。

小説が描かれた時期から見ても、事件のモデルとなったのは船場吉兆の食品偽装事件だろう。大阪にある老舗高級料亭が2007年に賞味期限切れや産地偽装、また客の食べ残し料理を使いまわしていることが発覚。さらに「全責任はパート女性にある」と罪の擦り付け合戦が始まり、会見では言葉につまる取締役の長男に、母である女将が返答内容をささやき、そのことから「ささやき女将事件」などとお茶の間を騒がせた。連日連夜面白おかしく報道されるそれらを、TVで観ていたのを記憶している。マスコミは何がそんなに面白かったのか。何かしらのニュースを淡々と取り上げるのはいいが、このようにエンターテインメントとして報じられるのは今も昔も変わらないらしい。まぁだからこそ、こうして十年以上の時を越えても記憶に残っているのかもしれない。

ja.wikipedia.org

 

主人公の紫紋はまだ見習い5年の下っ端だった。そんな下っ端が上からの圧力に対抗できるはずもない。料理の使いまわしをせざるを得なかった。仕方なかった のだ。

そして紫紋には後輩の悠太というまだ19歳の青年がいた。自身が先輩から受けたように厳しくしなければならないと思いながらも、紫紋は悠太に厳しく教えることができず可愛い後輩だった。そんな紫紋を悠太も大層慕っていた。しかしその悠太は突然、自殺したのだった。

仕事と、夢と、大切な後輩と、そのとき持っていたものを全て紫紋は失った。そんな失意を胸にバスに揺られる。悠太同様、自らの命を終わらせるために。そこから物語が始まるのだった。

「尽果」というバス停で降り立った紫紋は、崖の上にそびえる、今にも風に飛ばされてしまいそうな小屋を見つける。そこで命を終わらせよう、そう思いついて歩んで良くも、そこは「まぐだら屋」という料理屋だった。そういえば何も食べていない。出汁の芳醇な香りに誘われ、紫紋はつい扉を開く。そこには マリア という女性が客に振る舞う料理を作っていたのだった。

その後、まぐだら屋で料理人として勤めるようになった紫紋はその集落の人々とも馴染んでいく。しかし、自分の過去のことは誰にも言えない。そして、周りにも傷を負ったであろう人々が多くいた。しかしそれを聞くことができないでいた。その尽果の地は、そういった人たちが集まってくる強い磁力をもったところらしい。様々な人と触れ合うことで紫紋は、そして他の人々もかわっていく。そんな物語だった。

 

「まぐだら屋のマリア」というタイトルからもお察しできるが、作中に出てくる登場人物や地名は新約聖書に由来するものが多い。

 

  • 及川紫紋(主人公)25歳…十二使徒の1人である シモン・ペトロ もしくは 熱心党のシモン
  • 有馬りあ(通称マリア)「マグダラ屋」の店主…マグダラのマリア。先述の通り。
  • 丸狐、紫紋同様に尽果に流れ着いた19歳の青年…サン・マルコ。新約聖書の「マルコによる福音書」の著者
  • 湯田真、吟遊の料理長…イスカリオテのユダ十二使徒の1人である。キリストを裏切って金銭を得たことで有名。(ちなみに関係ないかもしれないが、船場吉兆の社長の苗字は湯木。)
  • 早乙女春香、仲居。紫紋が思いを寄せていた2歳年下の女性…新約聖書ルカによる福音書」また「使徒言行録」の著者
  • 浅川悠太、紫紋の後輩…十二使徒の1人である ユダ・タダイ(?)
  • 桐江、マグダラ屋の女将。…Kyrie(キリエ)、「主よ、」の意。ミサ典礼の式文の一つ。神にあわれみを求める祈り。あわれみの賛歌。
  • 与羽…十二使徒の1人 ヨハネ
  • 与羽(桐江)杏奈、与羽の妻…聖母マリアの母親 アンナ。
  • 与羽花南、与羽と杏奈の子…「乳と蜜の流れる場所」と描写され、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地であることから’約束の地’ともよばれる
  • 地塩村…「イエスの血潮」
  • 名戯寺(なざれでら)…ナザレのイエス。またイエス・キリストが幼年以来30年間を過ごした地とされる。

ざっと気が付いただけでもこんな感じだろうか。この辺りは明るくないので勘違いや人物違いがあるかもしれないし、気が付いていないものも多くあると思うのであしからず。

 

この物語では過去に罪を(それが法律に触れるかどうかは置いておいて)おかした人々のこれからが描かれている。紫紋も丸狐も春香も、そしてマリアも。そしてそこからの救いが描かれているわけだが、もちろん無理矢理なところも多い。悠太は救われないし、与羽の件も「ん?」と思ったし、マリアの過去が思ったより弱いようにも思う。桐江さんはその点、実によかった。これがユゴーであればだれも救われずに終わっただろう。ただそういった点も含めて、良い物語だと思う。

 

物語のもう一つのkeyとなるのは食べ物。どんなに楽しくとも、悲しくとも、つらくとも、人は食事をとる。そうしなければ生きていけないからだ。作中では料理の描写がとても無駄なく、スピーディに描かれている。実際に目の前で料理人がさばいてくれているかのような、シュっという音が聞こえてきそうな感覚が心地よかった。何より腹が減る。

 

まだ原田マハさんの作品は2作目であるので、彼女の描く世界観の全てが解っているわけではない。森見さんや青山さんのようにワールドに入り込むにはまだ時間がかかりそうである。次は、「たゆたえども・・・」を読もうと思っている。ヴィンセントファンゴッホ。知っているが、知らない人物。原田マハさんがどのように紡がれているのか、今から楽しみである。